2009年2月16日月曜日

2009年2月15日日曜日

世界地図 kmの地域分類


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世界の独立国(国連加盟国192)を便宜上以下のような地域に分類しています。以下ブログの記事はすべてこの分類を前提とさせていただきます。

1)アジアAsia(国連加盟国38)・2)アフリカAfrica(53)・3)アメリカAmericas(35)・4)ヨーロッパEurope(52)・5)オセアニアOceania(14)

さらに細かく分けると 

1)アジア
北アジア5: 日本 中国 韓国 北朝鮮 モンゴル    
東アジア11: フィリピン マレーシア シンガポール タイ インドネシア ブルネイ ラオス ベトナム カンボジア ミャンマー、 東チモール
南アジア7: インド パキスタン バングラデシュ ネパール ブータン スリランカ モルジブ
西アジア15: サウジアラビア UAE オマーン カタール クウェート バーレーン、
シリア ヨルダン レバノン イラク イエメン、 アフガニスタン イラン トルコ、 イスラエル
2)アフリカ
北アフリカ7: エジプト リビア チュニジア アルジェリア モロッコ モーリタニア スーダン
東アフリカ13: マダガスカル コモロ セーシェル モーリシャス、ケニア タンザニア ウガンダ、ルワンダ ブルンジ 
ジブチ、エチオピア エリトリア ソマリア 
南アフリカ9: 南アフリカ レソト スワジランド ボツワナ ナミビア ザンビア ジンバブエ マラウィ、 モザンビーク 
中アフリカ9: コンゴ民主 コンゴ 中央アフリカ チャド カメルーン ガボン、 
アンゴラ サントメプリンシペ 赤道ギニア 
西アフリカ15: セネガル
 マリ ブルキナファソ ニジェール ギニア コートジボワール トーゴ ベナン、 ガンビア シエラレオネ リベリア ガーナ ナイジェリア、 カーボベルデ ギニアビサウ 
3)アメリカ
北アメリカ10: 米国 カナダ メキシコ グアテマラ ホンジュラス エルサルバドル ニカラグア コスタリカ パナマ ベリーズ
南アメリカ12: コロンビア エクアドル ペルー ボリビア チリ アルゼンチン ウルグアイ パラグアイ ブラジル スリナム ガイアナ ベネズエラ
カリブ13: キューバ ドミニカ共 ハイチ 
ジャマイカ バハマ、 アンティグアB セントキッツN バルバドス ドミニカ セントルシア セントビンセントG グレナダ トリニダードT
4)ヨーロッパ
EU27: 
ベルギー オランダ ルクセンブルグ ドイツ フランス イタリア英国 アイルランド デンマーク、 ギリシャ スペイン ポルトガル、スウェーデン フィンランド オーストリア(15)、ポーランド チェコ スロバキア ハンガリー エストニア ラトビア リトアニア キプロス マルタ スロベニア(25)、 ルーマニア ブルガリア(27)
CIS12: ロシア ベラルーシ ウクライナ モルドバ、 アルメニア アゼルバイジャン グルジア、 カザフスタン キルギスタン ウズベキスタン タジキスタン トルクメニスタン
他13: 
アイスランド ノルウェー スイス、 リヒテンシュタイン アンドラ サンマリノ モナコ、セルビア モンテネグロ クロアチア ボスニアH マケドニア アルバニア
)オセアニア他
OZNZ2: オーストラリア ニュージーランド、
ポリネシア3: サモア トンガ ツバル
メラネシア4: フィジー ソロモン バヌアツ PNG
ミクロネシア5: ミクロネシア連邦 マーシャル キリバス ナウル パラオ

*非国連加盟国だがISO3166掲載の国・地域(台湾・バチカン等)や**その他の特殊領域(TCCリスト参照)もありますが、これらについては別の機会に触れてみたいと思います。
グルジアはCISから脱退後も便宜上グループに入れています。

2009年2月14日土曜日

荷物を頭に載せて運ぶ慣習

荷物を頭に載せて運ぶ慣習

荷物を頭に載せる慣習



初めて西アフリカを訪れたのは1998年の夏だった。それまでも世界各地で頭に物を載せて運ぶ人たちは見たけれど、西アフリカほどその慣習が広くいきわたっているところに行ったことはなかった。まるで人間 が二本足で歩くのと同じくらいの自然さで、子供も老人も両手に荷物を持った人も、その頭技をこなしていたのだ。

ギニアから国境を越えてシエラレオネに入ると、頭技のレベルはさらに上 がった。首都フリータウンに向う途中バスから視界に飛び込んできたのは、荷物を頭にのせたまま踊る女性たち。なぜ荷物を置いて踊らないのか、なぜ荷物が頭から滑り落ちないのか、疑問は尽きなかったけれど、月明かりに照らされた美しい光景は今でも目に焼き付いている。内戦で住居も店舗も破壊されつくしていたフリータウンだったが、海辺には自然発生的に復活した市が広がっていた。照りつける太陽の下、頭に物を載せた女性たちが市場を行きかう。これこそ夢に見ていたアフリカのイメージだと心が震えた。

この西アフリカの旅のしばらく後、南部アフリカを旅した。西アフリカほどではなかったけれど、頭に載せて物を運ぶ慣習は南部アフリカでも普遍的に見ることができた。それまでに私が旅した
南アジア(インド)・東アジア(インドネシア)・西アフリカ・南アフリカ・・・程度の差はあれ、どこでも頭技を使っている人がいたことになる。隣国韓国の釜山の市場ですら、おばさんが普通に頭で荷物を運んでいたのである。

思うに、リュックサック・バックパックが旅行者の間で人気があるのは、それが1)体に負担のかからない運搬方法でありかつ2)両手を空けておくことができて便利だからだ。そうだとすると、頭上に物を載せて歩くことも1)体に負担のかからない方法で、2)両手を空けておくことができるという意味で、同じはずである。

結局、荷物を頭に載せて運ぶことは特殊な習慣ではなく、むしろ人間の本来あるべき合理的な運搬方法だと言えるのではないか(仮定)。

この仮定を念頭に置きながら、その後世界の国々を旅する時にその地の人々がどのように物を運ぶかを見ていたが、この慣習がよく見られる地域とほとんど見られない地域があった。

世界の独立国をほんの少しずつではあるが一回りした今、独断と偏見でまとめてみたい。5段階評価で、5が非常に一般的、1がほとんど見られない、という意味。

アフリカ: 西部(5) 中部(5) 南部(4) 東部(4) 北部(3)
アジア: 北(2) 東(3) 南(4) 西(3)
アメリカ: 北(2) 南(2) 海(2)
ヨーロッパ: (1)
オセアニア: (1)

頭でものを運ぶことが合理的だと仮定して、それが世界中で行われているわけではないのはなぜなのか。私は、いくつか理由を考えてみた。

1)アフリカ人のような 筋力・バランス感覚がないから(素質)、
2)頭でものを運ぶことが原始的・または怠惰な印象を与えるから(精神)、
3)頭の上に物をのせて運ぶことができるほど治安が良く ないから(治安)、
などではないだろうか。

たとえば、欧米では2)精神的理由、日本では1)素質と2)精神、中南米では3)治安の要素があると思う。
意外に見られそうで見られなかったのが、南太平洋。思うに、南太平洋の人は、腕力はものすごいが、俊敏性とバランス感覚はいまいちという気がするので結局は1)素質の理由によるといえるだろうか。
黒人が多く、一見アフリカ的なカリブ海でも、頭に載せて物を運ぶ慣習は一般的ではなかった。おそらく生活習慣の欧米化にともない広まった2)精神的理由によるのではないか。逆に、カリブ海の中でもリゾート化がほとんど進まず欧米の影響が少ないハイチでは頭技を使っている人は多く見かけた。

私が世界各地で撮影した写真の中から本テーマに関連するものをアルバムにまとめてみました。なかなか興味深いと思うので覗いてみてください。「この国でも頭に載せて物を運んでいる人を見た」、とか、「同様の写真を集めたサイトを見つけた」とかご連絡いただけると嬉しいです。

(以下、参考まで)

沖縄:ガンシナという縄の輪を間に挟み頭に荷物を載せる慣習が比較的最近まで一般的だったようだ。
http://nachiyonn.blog58.fc2.com/blog-entry-812.html

京都:大原女、白川女など、一部に頭に荷物を乗せて歩く習慣があったようだ。 http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?

イタリア先住民族のパエストゥム人:葬列の人々が頭の上にの盆にのせて、ザクロ、卵、パンや小さな香油壷などを運んでいる様子が墓に描かれているようだ。http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Afterlife/02/0201.html

2009年2月13日金曜日

モンゴル 朝青竜のガッツポーズに思う(その2)




*KMのモンゴル相撲見学記 勝った力士は鷲の舞をする。http://4travel.jp/traveler/km/album/10002978/"> 

2009年2月12日木曜日

ブラジル 映画「シティ・オブ・ゴッド City Of God」

リオデジャネイロのスラム「シティ・オブ・ゴッド」を舞台にしたバイオレンス映画。ブラジル映画は初めて見たが、オープニングから一貫してテンポのよい音楽と映像・地面すれすれや細い路地でのカメラワークには圧倒された。



人気の映画でネット上もたくさんのレビューが上がっているようなので、簡潔にします。

ブラジルは2回旅行で行きましたが、リオデジャネイロのスラムがこんな状態だとは知りませんでした。もちろん60年代70年代が舞台のようなので今は違うとは思いますが、ノンフィクションに近い作品だと聞いてショックを受けました。旅行者の視点では決して触れることのないリオの闇の部分を映像で見ることができたのが良かったです。。

「スラム」が舞台ということでしたが、粗末な家が密集する貧民街、という意味では、大したことないと感じてしまったのが正直なところです。アフリカには普通の町も一歩足を踏み入れればもっと貧しいですから。カリブ海のハイチもアフリカ同様で、リオの貧民街なんてかわいいものだと思いました。

怖いと思ったのが、COGでは武器が簡単に手に入り、それがいとも簡単に使われていること。パキスタンの一部やアフガニスタン・イエメンなどでは簡単に武器が手に入り、道行く男たちが武器を携帯していたりしますが、ひとたび発砲すれば一族や部族の全面戦争に発展しかねないという緊張感が常にあり、それがブレーキになっています。私が見た限られた地域の話ですが、これらの国の大半は「危険な無法地帯」ではなく、「秩序正しい安全な社会」であると感じました。ところが、部族社会・村社会とは違う寄せ集めの貧民街では、歯止めとなる掟がないからでしょうか、それとも力だけが支配するということ自体が掟なのか、COGには秩序というものが感じられず、それが非常に怖いと思いました。特に怖いかったのが、ピストルを渡された子供集団が、あっけなくボスを射殺してしまうところ。

2009年2月11日水曜日

ロシア 映画「12人の怒れる男」

「ルムンバの叫び」のついでに最近見た映画3本の感想も書いておきます。記憶の彼方に押しやられてしまう前に、備忘録として。

「12人の怒れる男」は、2008年のロシア映画。ベネチア映画祭の特別銀獅子賞を受賞、アカデミー賞外国映画賞ノミネート。アメリカ映画「12 Angry Men」のリメイクということだが、それを意識しなくても十分楽しめる。私自身は、「オリジナル」のアメリカ映画はクラシック過ぎてあまり楽しめなかったが、ロシア版「12人の怒れる男」は、チェチェン問題や現在のロシアが抱える問題やロシア人のものの考え方がよく描かれておりとても興味深いと思った。監督は「黒い瞳」のニキータ・ミハルコフで、本人も陪審長として出演している。(以下ネタバレ注意)



私は公式HPで予告編を見ていたため、鑑賞時には半分「ネタバレ」で粗筋が読めたのが残念。もしこのブログを見てくださっている方がまだ映画を見ていないなら、以下を読む前に映画を見ることを強くお勧めします。

養父を殺害した嫌疑で拘束されているチェチェン人の少年の有罪・無罪を陪審員12人が裁定することになった。

当初は「悪い奴だ。有罪に決まっている。さっさと評決して家に帰ろう」というムードいっぱいの陪審員たち。ところが、一人の陪審員が主張する。「一人の人間の一生がかかっているんだ。少なくとも議論を尽くそう。」

男はさらに自分の身の上話を始める。一度は人生に躓き自暴自棄になっていた自分が、人とは違った物の見方をする一人の婦人のひとことで救われた話を。

「思慮深さ」を民族の美徳とするユダヤ系の男を皮切りに、無罪票が少しずつ増えてくる。陪審員それぞれの過去や孤独を語りながら。

無罪票が有罪票と拮抗するころになると、陪審員たちは配役を決めて殺害現場を再現することになる。法廷で証言した足の不自由な老人が、ベッドから起き上がり犯人が逃げていくシーンを見ることがいったい時間的・物理的に可能なのかを、裁判上の証拠に照らして検証していくのだ。チェチェン人のナイフの扱い方・チェチェン人の気質・証人の証言が嫉妬に基づくこと・少年に濡れ衣を着せることで利益を得る真犯人の存在・・・さまざまな要素を吟味する過程で、当初頑なに有罪を主張していた陪審員たちが少しずつ翻意していく。

ここまでは大筋で予測できる展開だった
。しかし、「全員一致で無罪」と思われた瞬間、陪審長が言う。

「少年は無実だがあえて有罪とすべきである」と。つまり、チェチェンの実の家族を戦争で失い養父も殺害された少年は身寄りがない上にロシア語も不自由。そんな少年が釈放されても真犯人の組織に抹殺されるだけだ。結局無罪評決は死刑宣告に等しい。それならばむしろ少年を保護するために当面刑務所に収容してもらうべきだと(ロシアは死刑制度を廃止しているのですぐに処刑されることはない)・・・。

芸術家の陪審長は自分が「元将校」であったと明かし涙ぐむ。自分たちの部隊が招いたチェチェンでの悲劇に引退した今も苦悩し続けていることをうかがわせる場面だ。チェチェンでの惨状を身をもって体験しているだけに少年を何とか保護してやりたいのだろう。それともチェチェン人に対するせめてもの罪滅ぼしだろうか。

ラストシーンは戦闘シーンではないし音もないけれど、ビジュアル的にはかなりショックである。廃墟となり死骸が転がるチェチェンの町を犬が駆けてゆく。何かを咥えながら。

コメディの要素
チェチェン問題・殺人事件という重いテーマを扱っているにもかかわらず、まるでコメディ映画のような軽快さがある。「ロシア、しょうもねぇー」「ロシア人、馬鹿」という自虐的な笑いの要素が全編にちりばめられているのだ。まず陪審室が学校の体育館。子供たちを掻き分けながら、バスケットボールなど運動用具に交じってクラシックなテーブルと椅子が並べられている「陪審室」に向う。共産主義時代に誰かが隠した配給物質、情事の後をうかがわせるブラジャー、麻薬吸引に使ったと思われる注射器、細かく見ていくとかなり楽しい。
また登場人物のキャラクターが特徴的で笑える 差別主義者のタクシー運転手、時代錯誤の共産主義者、西欧かぶれのマザコン社長、裏ビジネスに詳しい男・・・脚本が非常によく練られていると思う。

チェチェンの文化・気質
ナイフを振り回しながらのダンスと言えば、イエメンのジャンビーアダンスが想起されるが、スピード感・テクニック・緊張感はこの映画で出てきたチェチェンのダンスと比較にならない。チェチェン兵のみならず、年端もいかない村の子供やさえない中年の医者までこれをやるのである。映画用の演出にすぎないのかもしれないが、単純にかっこいい。また、この映画で触れられるチェチェン人の気質が江戸時代の侍のようで不思議な親近感を覚えた。「決して言い訳をしない」、「目上の者に逆らわない」、口先だけの脅しはせずに勇敢な行動に即座に出る等。これらは、武士の美徳・作法とされた潔さ・忠義・信義・・・そういった概念に相通じるものがあるように感じた。いつかチェチェンが平和になったら是非とも訪問したいものだ。

コンゴ民主 映画「ルムンバの叫びLumumba」

コンゴから帰ったばかりだというのに、コンゴのことがずっと気がかり。レンタルビデオ屋で選んでしまったDVDも、「ルムンバの叫び」。

ルムンバというのは長きにわたりベルギーの植民地だったコンゴを独立に導いた人物。コンゴ民主建国の父とも評されコンゴでは現在も人気がある。

この映画は、ベルギー・フランス・ドイツ・ハイチ共同制作で2000年カンヌ映画祭候補作品。これまでよく知らなかったルムンバの人物像のみならず1960年のコンゴ動乱の背景が描かれておりとても興味深く鑑賞することができた。(以下ネタバレ注意)



1885年ベルリン会議でアフリカ大陸はヨーロッパ列強によって分割され、現在のコンゴ民主共和国はベルギーの植民地(当初は国王レオポルドIIの私有地)となった。

ベルギーは、奴隷・象牙・鉱物資源などコンゴから搾取の限りを尽くしてきた一方、軍や統治システムに現地人を採用せず、コンゴ人の間では植民地として支配されることの不満が鬱積していた。

スタンレービル(今のキサンガニ)で郵便局に勤めていたパトリス・ルムンバは、首都レオポルドビル(今のキンシャサ)に移住、「開化民」の資格を得て仕事やコネづくりにいそしみながら独立運動に身を投じる。

1960年といえばアフリカの多くの国が独立を勝ち取った「アフリカの年」だが、この映画に描かれているように、「独立という自由を与えてしまえばコンゴは大混乱に陥る」「(西側諸国からしてみれば)(独立後ソ連の影響を強く受けた)アルジェリアのようにアカの手に落ちる」という懸念は欧米諸国の間で強かったようで、独立までの道のりは決して容易なものではなかった。(何かで読んだが、独立時に大学卒業者がわずか16人だったとか。インフラもほとんど整えなかった。独立後の混乱は当然に起きるわけだ。)

独立後の筋書きも「中央集権か地方分権か」という点においてコンゴ人指導者の中で分かれていた。パトリスは、鉱物資源の大半を産出するカタンガ州に大きな権限を与えることなく中央集権を推し進めようとするが、このことがカタンガのリーダーやその背後で甘い汁を吸う外国の反感を招き、結果として彼の暗殺につながってゆく。

おもしろかったのは、独立直後の混乱に乗じてクーデターを起こし30年間に渡り独裁者として君臨したモブツ将軍が、優柔不断で無能・アメリカをはじめとする西欧諸国の操り人形のように描かれている点。映画のモチーフである「独裁者の影に大国あり」というのは、冷戦が終わり21世紀になった今日のアフリカでも全く変わっていない問題であると思う。

*ルムンバに関する詳細
http://en.wikipedia.org/wiki/Patrice_Lumumba
Wikiの日本語サイトはちょっと不正確。ルムンバが殺害された現場はエリザベートビル(今のLubumbashi)郊外だがキサンガニとなっているし、カタンガ州での銅の産出が「世界全体の」70%という記述も「当時のコンゴ全体の70%」の間違いだと思われる。

スーダン ヌビア相撲 朝青竜のガッツポーズに思う






少し前に朝青龍が春場所で優勝してガッツポーズしたことが問題になった。批判する人の言い分は分からなくもないが、スポーツ選手の感情の発露が国を挙げての大論争になってしまう点が極めて日本的だと思った。勝って嬉しい気持を体で表現することはむしろ自然なことなのだから。

そこで思い出したのが、スーダンで見たヌビア相撲。力士も、観客も、応援団も大いに盛り上がり感情を表に出す。日本式、スーダン式。見ていて面白いのはどちらだろうか。

無表情・無動作で押し黙ったまま土俵を去るのは、日本以外ではサービス精神に欠けてむしろ失礼と思われるのでは?

*KMのモンゴル相撲見学記 勝った力士は鷲の舞をする。http://4travel.jp/traveler/km/album/10002978/"> 

2009年2月3日火曜日

コンゴ民主 出会った人々








いつも誰かが助けてくれる。困難な今回の旅を支えてくれた何人かをここで紹介してみたい。

ムベンバ: キンシャサの下町マトンゲ地区にある安宿Cのマネージャー。キンシャサに来るのは3回目だが、いつもここに泊まっている。前回撮影した写真をあげるととても喜んでくれた。私が夜の散歩に出かけるときには暇な従業員をつけてくれる。私が街中で写真撮影をしているところを私服警官に捕まったときは、身元引受人として迎えに来てくれた。北部コンゴに一人で行くという私を大変心配し、旅行中も(タリーに買ってもらったコンゴのSIMカードを携帯に入れていたので)、そして私が日本に帰国してからも電話をくれた。北部コンゴでは携帯電波が通っているところがほとんどないので私から連絡できなかったのだが、その間何か私におきたかと心配していたようだ。また必ず会いに行かなければ行けない人物だ。

タリー: キンシャサのチャド大使館を探している途中に寄ったカフェで知り合った。コンゴの旧宗主国ベルギーの大学を卒業しており、英語が話せる。夜は家に招待してもらい食事をした。妊娠中の奥さんリンダとはベナンで働いているときに知り合ったという。庭付き車庫つき2階建ての一軒家だが、月々の家賃は400ドルですむらしい。メイドと夜間警備員が一人ずつ。父親は有名な建築士、郊外の実家にもつれていってもらったが、プールつきの豪邸だった。タリーの父親には奥さんが2人。一夫多妻といってもイスラム教徒というわけではなく伝統的に認められていたそう。タリーの兄弟は11人、うち国外に3人住んでいる。妹の一人の結婚式が数日後にあるというが、相手は隣国の大統領候補であるため、誘拐・暗殺の対象になることを家族で心配していた。父親の家には親戚が多数来ていて、西コンゴの共通語であるリンガラ語ではなく、フランス語で話している。子供たちが就職に困らぬよう家庭の方針でフランス語を話すようにしてきたという。もっとも、部族の出身地であるカサイ州の言葉チルンバ語も時々飛び出しているようだった。下町マトンゲに住む庶民の世界とは全く違う上流階級の暮らしぶりを見て、コンゴの多元性を改めて認識した。クリスマスの日には、サンタクロースの帽子をかぶって、親戚の子供たちにプレゼントを届けに回った(私も同伴)。

ソランジュ: キサンガニに行くという私にタリーが友達のソランジュを紹介してくれた。英国系企業に勤務しており英語が話せる。キサンガニの空港のイミグレは、私がわざわざコンゴ川下りの船に乗るためやってきたと言うことを信用せず、「身元引受人」がくるまで私を解放しなかったので、彼女が迎えに来てくれて本当に助かった。キサンガニでは物がなくてチョコレートすら手に入らないというので私がキンシャサのレバノン系商店で買ったチョコレートを上げると子供のように喜んだ。ソランジュの友達が経営しているホテルパームビーチは町一番のホテル。国軍の総司令官がたまたま宿泊していて軍人だらけだった。一泊75ドルの宿泊代金は割引してくれたけれど、私には居心地が悪かった。

ロジャー: ホテルRのマネージャーの息子。
パームビーチをチェックアウトして、80-90年代のバックパッカー伝説の宿オリンピアを訪ねたが、長く続いた内戦で外国人旅行者は全く来なくなり、宿はつぶれていた。往年の宿を知る掃除のおじいさんが片言の英語で懐かしそうに私の相手をしてくれるだけだった。町の人が薦めるホテルキサンガニはコロニアルで雰囲気の良いところ。従業員はとても親切で、毎日ジュースを飲みに行ったが、近くに格安宿があるというので宿泊はしなかった。近くの格安宿Rは、案の定連れ込み宿で、掲示されている部屋のレートは90分単位だったが、一晩15ドルで泊めてもらえることになった。宿RのオーナーLはエキゾチックな風貌。聞いてみると、彼の父はパキスタン人だという。本人もムスリム名を持っていたが、無料教育が受けられるため子供の頃にカトリックに改宗しているという。Lの息子がロジャー。兄弟がオーストラリアに亡命を成功させたため海外への憧れが強い。英語が話せ、街中や郊外を案内してくれた。

ミミ: 船Kevin号マネージャーの娘。写真嫌いのため彼女の写真はなし。彼女は普段南アのヨハネスブルグに住んでおり、船の中で唯一英語が話せたので、込み入った話のときはいつも仲介してもらった。常に料理をしているか何か食べているかと言う感じで、いつも私に一緒に食べろと誘ってくれた。ミミは20才前半だろうか、ミミの旦那の方がマネージャー(36歳)より年上に見えるのでちゃかされているのかと思ったが、ミミとマネージャーは本当の親子だった。
Kevin号はエンジンの故障でなかなか出発できなかった。この船、本来、15人用くらいなのに、自船より大きな「島」(動力のない船体)を二つもくっつけ合計200人くらい乗っていて、その上、4WD車4台その他生活物資満載。アフリカでは荷物超満載のトラックばかり見かけるけれど船でも事情は同じで、こんなに荷物を積みすぎて調子が悪くならないほうが不思議だ。エンジンルームを見たけれど廃船同様でとても直るとは思えなかった。いらだつ私を、ミミは「すぐに直るわ。お父さんは神父(の資格も持っている)だから信用して待っていればいいのよ」となだめ続けた。4日後私は痺れを切らして代わりの船に乗せてもらったが、ミミの言うことを信じて待たなくて正解だった。帰国後ポラン氏にスカイプで連絡して確認したところ、船の修理が完了したのは、私が代わりの船に乗ってからさらに8日たった後だったと言うのだから。順調に行けばキサンガニーキンシャサは2週間でつくというが、ミミは今頃キンシャサに到着しているのだろうか。

ポラン: キサンガニからBumbaまで行くはずだった船Kevin号で知り合った乗客。エンジニアだが、Basoko町まで米を400袋運ぶビジネスマンでもある。大変世話焼きで、漂流地Yakusuでも、村長・警察署長・病院の先生・校長先生などの所に私を案内し、食事を出してもらったりお湯バケツシャワーの手配を頼んでくれた。船の中でバイクを積んでいた男(Issa)がバイクで北部の町Gemenaまで行くことを知ると、私をただで乗せて行ってくれるよう交渉してくれた。

イッサ: 船の中で知り合ったISSA。キサンガニで買ったバイクを船でBumbaまで運びそこから運転して自宅のあるGemenaまで帰る途中だった。バイクに乗せて行ってくれるといわれて私は躊躇した。ISSAは強面、はっきり言って「悪人顔」だったから。けれど奴に乗せてもらって本当によかった。バイクタクシーなんてGemenaに到着するまで見なかったから奴がバイクに乗せてくれなかったら自転車便に乗るしかなかったかもしれないのだ。Issaのバイクの運転は荒くて、何度も転倒したし、振動で腰骨が折れそうになったし、一年分の筋肉痛を味わったけど、奴と一緒に行動することで、さまざまな危険や障害から守ってもらうことができた。たとえば、途中で川があると渡し舟に乗らなければならずその度にぼったくられるのだが、ISSAのおかげで渡し舟の料金は大体半額くらいまで値切れた。また、道中いたるところで、私服の怪しい公務員や警察に停車を命じられるのだが、奴はその命令を無視して絶対に停車しなかった。停車してしまえば、外人の私が言いがかりをつけられ罰金・賄賂・手数料を取られることが確実だから。一度は警察官が4人並んでいるところで笛を吹かれて、「分かった。停車する」、というジェスチャーをとりながら警察官の真横で急加速して逃げた。痛快だった。電気や携帯電波のあるところなら、次の村の警察官などに連絡されて先回りされて逮捕されるところだが、インフラのないコンゴではそういうこともなかった。ISSAのおかげで、道中の宿代も一切かからなかった。1泊目(Basoko)、2泊目(Bumba)、4泊目(Gemena)は、ISSAの親戚の家に泊めてもらった。3泊目も親戚の家なのかと思ったが、実は全く知らない他人の家だったという。最後に金を多く要求されて少しけんかしたけれど、ちょい悪ドライバーと旅ができてとても楽しかった。

コンゴ民主 2008.12 旅の概要


写真: キンシャサ郊外、タリーの父のプール付き豪邸


コンゴ民主 旅の概要

* 期間 2008.12-2009.1 3週間半

* 訪問国 コンゴ民主(メイン)・中央アフリカ・チャド 

* ルート  (越えた新国境2)

NRTCDG: 種々のトラブルによりHKGAMS経由・・・怪しい中国人と疑われ大変でした。

CDG-FIH

(コンゴ民主)

キンシャサ キサンガニ便を待って3

キサンガニ: 船待ちで4

キサンガニー Bumba: 500kmの船の旅 1泊2日の予定が、エンジン等故障で漂流、5日目にあきらめてカヌーに乗り換える

Yakusu(キサンガニ近郊)-Basoko: カヌーで移動 2

BasokoBumba- Gemena-Zongo-: バイクで移動 4

(中央アフリカ)

-Bangui-Sido 23日 車チャーター

(チャド)

-SidoNdjamena 12日 ヒッチハイクとバス

NDJ-CDG-NRT

* 予算 50万円超

AFのアフリカ往復(NRT-NDJ, FIHNRT)、フィックスオープンで約40万(Tax、サーチャージ込み)、チケット変更代4.5万円、

コンゴ国内線250ドル、中央アフリカ内車チャーター代(超ぼったくり)、コンゴ内船代50ドル、コンゴ内バイクガス代など230ドル等

2009年2月2日月曜日

コンゴ民主: キサンガニから船で












船は生きている村だった。生きた鶏・蛇・猿・カタツムリ、人々は料理・洗濯・水浴・散髪・ゲーム・・・・・地上にいるときと同じような生活をしていた。「非常食」のパンを持ち込んだ私だが、パンにはすぐにアリがたかるしカビが生えてしまい、船の上の人々の食事を分けてもらった。

船は盛大な儀式をへて出港したのに、エンジンその他が故障して川を漂流。たどり着いたYakusu村で修理を待ったが、結局は直らなかった。5日間で25kmしか進まなかった。

代わりに振替られた船は、カヌー(ピローグ)だった。私・ISSAとそのバイクが乗る前から重量オーバーでほとんど沈みかけている。私がちょっと体を動かしたら誰かが落ちてしまいそうだった。2日後にBasokoに到着。

コンゴ民主 中央アフリカへバイクで
















写真: Basoko-Zongoの道。4日間かけてバイク(の後部座席)に乗って移動。道中すべて民家泊。

Basokoから国境まで地図で見ると直線距離は00km、けれど実際には直線ではいけないから実測距離はもっとあっただろう。完全未舗装。ほとんどは道幅が狭くて4WDも通れない道だった。現実的な移動手段は、自転車バイク(トレカ)をチャーターし2週間かけていく。

私は船の中で会ったIssaのバイクに乗せてもらうことに。バイクを買いにKisanganiまでやってきた。ISSAは、船でBUMBAまで行ったらバイクを運転して実家のGemenaまで帰るので、BUMBA-GEMENA間はガソリン代だけ出せば乗せていってくれることになっていたのだ。実際には、運転距離も大幅に増え、もっと払うはめになったが。

乗せてもらったのはSENKEという中国製のバイク。日本では見たこともないが、コンゴでは選択の余地がないようだ。前輪は新車でもタイヤつるつる。道がひどいせいもあって一日3-4回は転倒した。ジャングルや砂地だったので幸い怪我しなかったが。

現地人に道の悪さは聞かされていたけれど、悪路は想像以上だった。1960年にベルギー支配から独立して以来一度もメンテされることなく朽ちてしまったのだろう。赤くさびて川に落ちている鉄橋や、大きく歪んだ鉄道線路跡などもあった。ジャングルの中のあぜ道を縫うように、川を何度も超えながら、山道・崖道・砂道、突然現れる竹林、色とりどりの熱帯の蝶々まう木陰、サトウキビ畑、ゴムのプランテーション、いろんな道を突き進む。アフリカに毎年通い続けて10年以上、コンゴだけでも3回目の私だが、こんなに純粋で多様なアフリカの表情を見たことはいまだかつてなかったように思う。

途中で見た村や集落は美しかった。ほとんど自給自足で生きているので、市場すらない。雑貨や薬を積んだ承認が、自転車にのって村を回ってくるだけだ。スーツを着てなたを持った農民、猿を撃つため猟銃を持った人、突然草むらから飛び出してくるゲリラのようないでたちの政府軍、外国人である私を見て言葉を無くすのは大人たちだけではなかった。私を見てびっくりして泣き出す子供、その反対にすでに泣いている子供がびっくりして泣きやむことも。

車が通れない道脇の集落だから、当然そこに住む人たちも車を見たことのない人が多い。バイクの対向車にすれ違うのは一日2-3回だった。バイク自体が非常に珍しいので、私たちのバイクが通り過ぎる度、子供たちが両手を振って歓声を上げる。私はバイクから振り落とされないようつかまっているだけで精いっぱい、とても手を振り返す余裕などない。絶え間なく打ちつけられる振動に対応するため、サスペンションのように手でクッションを作っていたが、それでも尻の骨が折れそうだった。

中央アフリカ: コンゴから国境越え


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中央アフリカとの国境のコンゴ側最後の町Zongo郊外。さすがに4輪車も通れる道になったが、もちろん未舗装。砂塵を巻き上げるトラックを追い越すのが大変。砂で全身真っ赤になる。

コンゴ川支流のウバンギ川をカヌー(ピローグ)で渡り中央アフリカに入る。出国スタンプを押してもらうために寄ったコンゴサイドのイミグレーションはもぬけの殻だった。ビルの陰に回ってみると私服の男たちがたむろ。彼らが入管職員だった。「ちょっと待て」という彼らに、「対岸で友達がまっているから」とウソをついて急いで対応してもらう。イミグレには固定電話がない。携帯電話で、中央アフリカのイミグレに電話する。「貴国のビザを持つ日本人一名が貴国入国を希望しているが、受け入れ可能か。」待たされているうちに書類を書き、「手数料」を要求される。制服の警察官が迎えにきて、船まで案内される。船との交渉はバイクのIssaがやってくれたのでぼったくりはないと思うが、案内人に1500(3D), 船頭に2000(4D)。ピローグは2人漕ぎ、一人勝手に乗ってきた男が「何かくれ」とずっと言っている。話してみるといいやつで、中央アフリカでコンゴフランを両替してくれるところはないとか(本当です。コンゴフランはコンゴでCFAに両替していく必要あり)、バンギの情報をいろいろ話してくれた。20分後バンギサイドに到着。船を下りて土手を登ると、中ア側のイミグレの人が私を迎えた。女性2人組なので、「手数料」の要求はないだろうと思ったが、その考えは甘かった。

前回訪問時2003年には、バンギが首都というには余りに小さいと思ったが、舗装道路が1000km以上なかったコンゴから入ったら印象が180度違う。5F建てくらいの高いビル、舗装道路、レストランがある。。。コンゴの道をバイクでやってきたため、埃と砂で、顔は勿論、ズボンも上着も帽子もシャツの後ろまで真っ赤っかの私、「都会」のバンギで恥ずかしい思いをする。

チャド: ビザが取れない。


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中央アフリカ国境の町Sidoから、こういうトラックの荷台に乗せてもらって、南部の町サールまででた。トラック待ちで5時間。

中央アフリカからチャドに入ると、人々の装いが一気にアラブ風になる。南部では地元の言葉はブラックアフリカの言語特有のリズムと勢いがあるが、公用語として話されているのはアラビア語だった。イスラム教徒の割合も非常に高くなり、人々は折にふれて筵を敷いてお祈りし始める。


* チャドビザが取れない

今回チャドのビザがとれなくて予定がだいぶ狂いました。チャドビザのためにチケットを3回変更して、それだけで4万5千円の出費。最終的には無理を言って在バンギ(中央アフリカ)で出してもらいました。


1)在日名誉領事館 

名誉領事館HonararyConslateというと、聞いたことがないという方もいるだろう。本国が設置する大使館より下位の在外公館(たとえばアメリカにおける日本大使館はワシントンDCにあるが、領事館はNYCやホノルルなどにも置いている。)とは異なり、通常設置先の国の機関や個人が本国から一定の権限を得ているもの。権限には程度があるけれど通常はビザの発行権限も持つ。実は天下りした日本の役人が威張り散らしているような在日名誉領事館もある。チャドの名誉領事館は大阪の某企業の社長さんが勤められている。2003年に初めてチャドを訪問する際には、パスポート郵送での観光ビザを迅速に発給してくれただけではなく、電話によるアドバイス、何かあったときのために名誉領事自らの署名を入れた名刺を2枚も入れていただき、緊急事態が生じた場合の連絡先などを複数教えていただいた。今回も便宜を図っていただけることを信じて電話をすると、名誉領事は病気療養中でビザの発給業務は現在行っていないということであった。(もしくは去年クーデターがおき在留邦人の多くが国外脱出する事態になったことから発給を自粛している可能性もある)。トランジットビザだけでも出していただけないかと交渉したができないということであきらめた。

2)在仏チャド大使館 3日かかる、しかもクリスマス休暇等で翌週になるというのであきらめた。

真冬の物価高のパリで、アフリカ旅行のための貴重な休暇をパリで消化したくなかった。

3)空港チェックインカウンターで交渉

チャド国の方針として事前にビザがない者は絶対に飛行させない。当局からファックスを得ているなどの書面による確認が得られなければならない。搭乗券をもらう際にチャドビザがあるか必ず確認される。オンラインチェックインなどの場合でも搭乗口で確認される可能性がある。チャドのNDJ空港でトランジットビザを取るよう交渉する、とか、万が一入国させてもらえない場合自費で出国すると一筆書く、とか交渉してみたが駄目だった。

4)AFチケットオフィスで交渉

私のチケットは、チャドのNDJ入り、コンゴのFIHアウトにしていた。これは、旅がスムーズにいって時間が余った場合、長く滞在するのであればNDJよりもFIHの方がはるかに面白いから。けれど、コンゴビザは持っているからFIHインにするのであれば、とりあえずアフリカ入りはできる。問題はインとアウトのルートを逆回りにしてもらえるかということ。つまりFIHアウトNDJイン のチケット FIHインNDJアウトにしてもらう必要がある。ルール上は、日付の変更は一万五千円相当の代金を支払い可能と書いてあるが、ルートの変更までは認めていない。町や電話の受付では案の上だめだったが、空港のオフィスで頼み込んで代えてもらうことに成功。ビザ問題は先送りになった。


5)コンゴのキンシャサで

チャド大使館が見つからず。というかチャド大使館捜索中に面白い人に出会ってしまったのでキンシャサでとることをあきらめた。また、日本大使館でレターを出してもらう必要がありそうだが、大使館がクリスマス休暇2連休だった。


6)中央アフリカのバンギで

通常隣国で小国の場合、ビザは迅速に取得できるものなのだが、バンギでも本国照会(チャド本国の政府に伺いをたてOKがでてからビザを交付)が必要で最低2日かかるという。すると土日を挟むので週明けまで待たなければならないことになる。在住チャド人の力を借り、大使館員の携帯電話番号を聞き出し、何度も電話確認していると、翌日発行が可能になった。それだけでなく、なんと私の外出中にホテルの宿泊先までビザつきパスポートを届けてくれた。


なお、中央アフリカからチャドへ陸路で入国時、入国スタンプを押し忘れられたらしく、出国時にもめた。これから行く人は入国印をよく確認してください。