2009年4月10日金曜日

中国 90年代前半と2000年代の比較

90年代前半の中国観光旅行は今と比べると本当に大変でした。1ビザ、2両替、3宿泊 4交通 などです。

1 観光ビザ→ 「天津 涙の港編」で触れたとおり
但し、抜け道はあったようで、海南島から入るとビザなし入国ができ、一定期間内であればその後中国のどこで滞在しようと良かったようです。ビジネスマンやよく使っていたと、宮崎正弘氏のメルマガで読みました。

2 両替 
今では当たり前のように日本円を人民元(RMB)を直接両替できますが、当時は違いました。外国人は外貨を外貨兌換券 FEC(Foreign Exchange Certificate)に代えて使わなくてはならず、両替は銀行など限られたところでないとできませんでした。また、FECはどこでも受け取ってくれるわけではないので、「やみ両替」で人民元を入手する必要もありました。
なぜ、そんなことを面倒な制度があったのか、今改めて調べて見たところ、「当時(km注:FECが利用されていたのは1973-1994)の中国では、一般の中国人が使用する人民幣 (RMB) とは別に、この外貨兌換券 (FEC) が流通していた。外貨兌換券と人民幣の額面価値は等価であったが、外貨に両替可能なことや、人民幣では買えない外国製品が買えることなどから外貨兌換券に中国人の人気が集まり、人民幣との闇両替が横行した。闇両替のレートは、FEC1元=RMB1.5元 - 1.8元程だった。」ということ。
つまり、外国人は人民元を直接両替できる場合と比べ、同じものを1.5倍ー1.8倍の金を出して入手していたことになります。人民元とFECの間にも肯定レートと闇レートの差がありましたが、外国通貨とFECの間も政府公定レートと闇レートの間に差があったので、外国人は二重にぼったくられているわけです。公定レートと実質レートの差額は中央政府の懐に入るのでしょうから、外国人から外貨を獲得するというのが国家政策だったのでしょう。当時中国の物価は節約派旅行者にとっても激安(ホテル代を除く)でしたので、問題は物価よりも両替・再両替の煩雑さでした。

3 宿泊
10年で大きく変わったのが宿泊事情ではないでしょうか。90年代前半は宿の確保に苦労したのを覚えています。
1)安宿・旅館(旅社)
外国人は基本的に安宿・旅社にとめてもらうことができませんでした。中国人と一緒に泊まって宿帳や支払いをその人にやってもらったり(天津港)、外国人観光客が来ないような地方の町(通化など)ではとめてくれたこともありますが、外国人が泊まれる高級ホテルに行け、と門前払いされることが多かったです。外国人と中国人民の接触を制限したい政府のお達しだったのではないかと思います。日本人は黙っていれば中国人に見えるし、中国語の声調や単語がおかしくても「どこか田舎から来たのだろう」と思ってもらえるので、泊めてもらえそうになったことも何度もありましたが、パスポートを出して日本人だと分かった瞬間即座に断られてしまうことが多かったです。
また、外国人が泊まれるとガイドブックに書いてある安宿に言っても、「空室がない!」(没有 メイヨー!)と言って取り合ってくれないのが精神的にしんどかったです。本当に空き室がないのならあきらめも付くのですが、実は本当は空き室があることが多く、それでも「ない」と言われてしまうのです。テレビに夢中でこちらを見てさえくれないこともありました。共産主義体制のもと生きてきた人民は、売り上げがなくても解雇されることはなく・一生懸命働いても意味がないので、勤労意欲など持ったことがなかったのでしょう。私は、中国で入国後はじめての町、天津で、2時間探して宿を確保できず、タクシーの運ちゃんに相談して連れて行ってもらった南開大学に泊めてもらえたのは、町についてから3時間たっていました。
西安・新強(カシュガル・トルファン・敦煌)雲南(昆明)成都など観光地は、問題なく安宿に泊まることができました。清潔なのですが、彩がなく、病室のように味気ない宿が多かったです。

2)高級ホテル
高級ホテルは、外人用なので、外人が断られることはありません。しかし、これが中国の生活物価とおよそかけ離れた料金なのです。一泊100ドルとか。当時の私の予算ではありえない選択肢だったのですが、一度だけ、高級ホテル内にとめてもらったことがあります。無料で・・・。
94年に訪問した南京では、安宿はもちろん、宿泊できる大学寮・鉄道学院なども見つからず途方にく れていました。どこの宿でも「xxホテルに行け」というので行ってみたら案の定100ドルクラス。「どこか安いところはないのか」と泣きついたら、高級ホテルの従業員がそのホテルの従業員寮に無料で泊めてくれました。南京大虐殺のイメージしか浮かばない南京に行くときは「アウェー」に赴く気分で したが、「虐殺」博物館見学中を含めて嫌がらせを受けることはなく、むしろ地元の人には本当に親切にしていただきました。


3)大学・学院の寮
留学生がいるような大学・学院には招待所があって、外国人旅行者を泊めてくれることがありました。天津の南開大学や北京の師範大学に宿泊しました。やや町の中心部から離れたところが多いこと、そこにいってみないと泊まれるか分からないのが難点でした。鉄道学院があれば、駅に隣接しているので便利です。大連などで泊まりました。

4)民泊
一般人の家に泊めてもらうことも何度もありました。ハルビンや瀋陽など。→「瀋陽 スイカ爆弾 編」

4 列車の切符
中国は鉄道網はしっかりしていて、利用価値は高かったのですが、需要が供給をはるかに上回っているので、切符を取るのが本当に大変でした。今は廃止されている外国人料金があって、4倍高く払えばチケットを取れることもあったのですが、それが可能なのは、北京・上海など外人用窓口が有る駅だけだったように思います。何日もそこで待つわけに行かない旅行者は、ダフ屋を通して高いチケットを買うのが普通でした。そんな苦労をしてやっと手にする切符ですが、偽切符という落とし穴がありました。偽切符は精巧にできていて地元の人も気づかないほどでした。ハルビン駅で、中国人のCさんが私の為に買ってくれた切符が偽でした。「偽ものつかまされないようにね、」とCさん自ら言っていたので、本人がショックだったようです。私自身は成都で再び偽切符をつかまされました。


なお、80年代に中国を旅した人からは、中国人が人民服を着ていると聞いていましたが、90年代前半に私が旅したところでは、人民服を着ている人はごくごくわずかでした。

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