2009年4月8日水曜日

中国 天津 涙の港

1992年8月、極東アジアに歴史的大事件がおきました。中国と韓国がついに国交を結んだのです。
冷戦下、世界は資本主義体制(西側)と共産主義体制(東側)に二分されていました。朝鮮戦争(1950-)で朝鮮半島が二分されて以来、アメリカが韓国を支援する一方、中国は一貫して同じ体制の北朝鮮を承認・支援してきたのです。ベルリン壁崩壊(89年11月)・冷戦終結(89年12月)・ソ連崩壊(91年12月)と世界が激動を迎えても、極東アジアには大きな異変がなく、北朝鮮と韓国は統一することなく国交すらも樹立できず敵国のままでした。にもかかわらず、北朝鮮を支援し続けていた中国が、北朝鮮の敵国である韓国と国交を結んだのです。当時まだ健在だった北朝鮮の「偉大なる将軍様」金日成は、どんなに面子をつぶされ、どんなに国家存亡の危機を意識したでしょうか。

この歴史的事件により、私たち旅行者も大きな恩恵を受けることになりました。中国韓国の間には次々と定期航路が就航し、韓国から簡単に中国に渡れるようになったからです。このことは中国ビザの取得要件にも影響を及ぼしました。今は15日間までビザなし渡航ができる中国ですが、当時日本人が中国の観光ビザを取るのは困難だったのです。にもかかわらず、韓国中国航路を使えば第三国人でも船の上で中国ビザを安価にかつ即時に取得することができました。厳格なようで抜け道が必ずある、中国という国家そのものを象徴するような魅惑の新ルートでした。

93年6月、私は、この機会を逃すまいと、日本から韓国、韓国から中国を船で渡り、さらに、外国人に開放されたばかりの河口・ラオカイ国境(中国/ベトナム)を越えてベトナムまで行ってみることにした。当時まだイギリス領だった香港をすでに訪問していた私ですが、中国本土に足を踏み入れるのはこのときが初めてでした。

中国行きの船は、ソウル近郊のインチョン港で直接探しました。今でこそ巨大国際空港のあるインチョンですが、当時はまだ空港が未完成で、田舎の港町の風情を残していました。中国ビザの代金は船により・また国籍により異なりましたが、当初予定していた青島(チンタオ)行きの船は中国ビザ料金が100ドルもしたのであきらめ、ビザ代が40ドル程度で済んだ天津行きの船に乗りました。

私の乗った天津号は、意外に綺麗な船で、船の中の女性サービス員も清楚な服を着ててきぱきと服務していました。船には個室もあったかもしれませんが、私のクラスはカーペットが広げられただだっ広い空間に雑魚寝するスタイルです。船には十分な数の毛布と小さな枕が備え付けられていてます。客は、ほぼ100%東洋人。韓国・朝鮮語を話している人が大半だったので、韓国人が中心だと思っていたら、朝鮮系中国人もかなりいました。それが分かったのは、日本に長く住んでいたという朝鮮系中国人Cさんと出会って教えてもらったからです。Cさんは日本に長く住んでいたということで日本語はぺらぺらでした。Cさんと私が日本語で話していると、日本語を話せる中国人が声をかけてきました。彼は旧満州出身のためか日本語教育を受けたようでしたが、普段全く日本語を話すことはなく、その日、実に38年ぶりに日本語を話したという事でした。

一夜明けると、船は、中国天津港に到着しました。船の出口が開けられ、私たち乗客はぞろぞろと船を降りていきました。
ここで見た光景を私は一生忘れることができません。入管の建物の先の出入り口にはものすごい数の出迎え客がいたのです。そして乗客の名を叫んだり、手を振ったりしながら、大声で泣いています。降りてきた乗客たちもそれに呼応するように呼びかけ、そして泣いています。日本人は、「心で泣く」という言葉に表れるように大人が人前で涙を見せることはそうそうありません。しかし、目の前の出迎え客らは、身をよじり声を振り絞っておいおいと泣いているのです。出迎え客の女性の中には、チマチョゴリ(朝鮮の女性の伝統的衣装)を着た女性も大勢いました。最近の朝鮮人・朝鮮族はチマチョゴリを日常的には着ていないでしょうから、彼女達にとって出迎えが、正装するだけの大イベントだということです。

私が目にしたのは、中国と韓国、様々な事情で、離れて暮らしていた親族らの再会シーンだったのです。1950年朝鮮戦争勃発から43年ぶりに会う家族も多かったのではないでしょうか。冷戦下、体制の違う国家に暮らし、会うことのできなかった親族の再会シーンに立会い、私は思わずもらい泣きしそうになりました。

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この時不思議に思っていたことがあり、今でもそのなぞが解けません。事情をご存知の方、ぜひ教えてください。

1.なぜ生き別れに?
なぜ、それほど多くの朝鮮族が、中国と韓国で生き別れていたのかということです。日本支配時代の韓国から、同じく日本の実質支配化にあった満州へ、仕事の為に渡った人たちでしょうか。そうだとしたら、何故彼らは韓国へ終戦後引き上げなかったのでしょうか。
それとも港にいたのは朝鮮系中国人というより、亡命北朝鮮人(脱北者)が主だったのでしょうか。朝鮮戦争によって、38度線を境に離散家族が生まれたことはそのとおりです。しかし、亡命北朝鮮人は、中国で身を隠すように生きているから、中国の港で出迎えなんていう大胆な行動には出ないのではないでしょうか。

2 「再会」ではないはずの若い人達がなぜ泣いている?
また、中国と韓国の国交がなかったのは、1948年から1992年の約44年間だと思います。余り幼い頃は記憶がないでしょうから、記憶を伴った44年ぶり再会となると、50代以上の人たちになるはずです。しかし、港で出迎えて大声で泣いている人たちの中には明らかに20代30代40代もいるのです。彼らは、朝鮮族だとしても中国で生まれ育っているはずで、断交前の韓国を知るはずもなく、よく知っている家族がいるとは思えません。親の代が韓国から来て、祖父母、従兄弟や叔父叔母を迎えているというなら分かるのですが、一度もあったことのない親戚との「初会」でそこまで感極まって泣くものなのでしょうか。






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