2009年4月7日火曜日

4 韓国 反日感情と差別

韓国旅行で人気のある目的地といえば、ソウル・プサン(釜山)・キョンジュ(慶州)・チェジュド(済州島)等です。韓国南西部のプヨと言ったら観光地としては名の通ったところではありません。そんなプヨに行くことに私が決めたのは、プヨが古墳時代(3C-7C)の日本と関連が深い百済(くだら・ペクチェ:4C-7C)の都だったからです。当時の日本は百済から有形無形の文化を数多く吸収しました。533年の仏教伝来も百済からもたらされたものとされています。百済が新羅に滅ぼされた際には、多くの百済人が日本に亡命・渡来しました。

これといった特徴のない地方都市のプヨではありましたが、韓国人行楽者に混じって小高い山(扶蘇山)を登ってみることにしました。1時間もかからずに頂上に到達しましたが、昔の王宮などはそのままの形で残ってはいませんでした。それでも、城の一部を再現したような伝統的な建築物から、眼下の町を見下ろすと、かつてのプヨの貴族達が眺めた景色を共有しているような気分になりました。

山を下り、町の食堂(シクタン)に入りました。丼もの屋なら丼もの・麺屋なら麺類と専門店ごとに分かれている日本と違って、韓国の食堂は、焼肉・丼物・麺・おでん・おかゆなど何でも注文できるのが特徴です。とくに、プヨからすぐ南の全羅道はビビンバが名物なので、ビビンバだけでもいろんな種類があるでしょう。どんなビビンバがあるのだろうと胸弾ませますが、テーブルの上にはメニューがなく、壁にも料理の写真が貼ってありませんでした。隣のテーブルにおいしそうな丼飯を食べている人がいます。私は、若い女性店員に声をかけ、指をさして注文しました。
km:これください(イゴ・チュセヨ)
本当は、「あれください(チョゴ・チュセヨ)」が適切な距離感なのですが、いつもメニューや写真をさして「これください」と注文していたので、「あれ」という言葉が浮かばなかったのです。
女:xxxxxxxxxx、xxxxxxxxxx?
女性は、私に何か尋ねましたが聞き取れません。
おそらくは、「あれというのは、xxですか?それともxxxですか?」とか「飲み物はつけますか?」とかそんなことを聞かれたのだと思います。
私は反日感情を意識してできるだけ日本人であることを隠していましたが、この場では正直に話すしかありません。
km: 分かりません(モッタムニダ)。日本人なんです(イルボンサラム・イムニダ)。
すると女性は、奥へと下がっていきました。奥からメニューをとってきてくれるのでしょうか。

ところが戻ってきたのは女性ではありませんでした。「スタスタスタ」という速いテンポの足音が私の背後で止まると、突然Tシャツの左肩の後ろを握られ、罵声とともに、持ち上げられました。びっくりして顔を見ると、食堂のご主人のようです。立たされた私は、主人に背中をパンパンとはたかれ、そのまま扉の外にはたきだされました。抵抗するとか言葉を発する余裕さえありませんでした。丁度相撲の押し出しのように、一瞬で勝負がついたという感じです。私はただ驚くばかりで、追い出された食堂の扉の前で動けずに呆然としていました。

一体何がおきたのでしょうか。私が何か悪さをしたわけではありません。私が日本人だと口にした直後に、主人がつかつかと寄ってきて、私をつまみ出したのです。とすると、主人の行動の原因となったのは私が日本人だという事実以外にありません。これは、日本人差別であり許しがたい暴力です。呆然とした気持ちは次第に怒りに変わりました。店の扉のすりガラスを叩き割ってやろうかと一瞬思いましたが、そんなことを「アウェー」でやってもぼこぼこにされるだけです。気を鎮めてとりあえずその場を離れることにしました。

いったいなぜ食堂の主人は、そこまで日本人に対して憎悪を持っているのでしょうか。おそらくは、日韓併合(1910)後の容赦ない統治や戦時中の残虐行為に対する怒りでしょう。しかし、私は、戦後20年以上たって生まれた世代です。そして、私は首相でも役人でも自衛隊員でもない一個人にすぎません。そんな私と昔の日本政府・軍部の行為とに何の関係があるのでしょうか。隣国である韓国に親しみを感じて海を渡り、日本の兄貴分だった百済の面影を追ってわざわざこの町にやって来たのに、なぜこんな仕打ちにあうのか、と思うと、怒りは悲しみに変わってきました。

プヨには一泊予定でやってきましたが、先の件で観光気分は吹っ飛んでしまったので、そのままバスでソウルに帰ることにしました。バスに乗っても考えることは、例のつまみ出し事件のことばかりです。思えば、食堂の主人の態度は尋常ではありませんでした。初めて店を訪れる客に対して、まるで親の敵を討つような手厳しい仕打ち。

親の敵・・・・・・もしかして、彼にとって日本と日本人は本当に親の敵なのでしょうか。1993年の時点で50歳過ぎの主人は、終戦時の1945年5歳や7歳だったはずです。戦争中の出来事とはいえ、日本軍に抵抗して処刑されてしまった韓国・朝鮮人は少なくなかったと思われます。また、一部の日本帝国軍兵士による暴行・強奪・虐殺・強姦等の犠牲になった地元の人も少なからずいたはずです。主人の世代の韓国人には、両親をそんな風にして失い、孤児として育ち、日本と日本人への憎しみを一日たりとも忘れることなく大人になったという人が何百人何千人といてもおかしくはありません。

もしかすると、主人はそういうような境遇にもと育った一人で、苦労して家族を養い、貯金をため、やっと作ったのがあの小さな食堂だったかもしれません。そうだとしたら、日本人を見るだけでむかつく、自分の食堂には絶対日本人を入れたくないという気持ちは、全く分からないわけではありません。本件の主人の私に対する差別は許せない、けれど、事情によっては全く理解できないわけではない。バスに乗っている間に私の心境はそんな風に変化していきました。

今回、このような形で差別を受けることがなければ、呆然→怒り→悲しみ→許せないけど理解、というプロセスを経て、差別や差別が生じる背景というものについて初めて深く考える機会もなかったかもしれません。
つまり:

1)差別はどこにでもありうる

今回たまたま韓国という国で差別を体験したわけですが、差別は日本でも、そしてどの国でも存在している。自分が差別に加担する危険もあるし、差別されてしまう可能性もある。今まで気づく機会がなかっただけだと思いました。日本でも韓国人には物件を貸さない大家がいたり、中国人お断りと書いたパチンコ屋があったり(93年当時の話です。最近は見ません。)します。

2)差別される側の感情
「差別はいけない」という言葉は、それまで綺麗事でしかなく、リアリティを持って受け止めたことはありませんでした。自分が差別される側になって初めて、国籍や人種で差別することがいけないということを体得した気がしました。
韓国人には物件を貸さない大家 や中国人嫌いのパチンコ屋オーナーは、本件の私のように差別された経験を持っていないのだろうと思います。プヨの食堂の主人も同様でしょう。持っていたならきっと違っ てくるはずだから・・・。

3) 差別する側の事情
差別する側には、差別に至るだけの境遇や体験があって、かつ、誤解を解消する機会を与えられてこなかったのではないか、と考えたのも今回が初めてでした。日 本人を差別する韓国人の食堂主人は日本人に親切にしてもらったことがないだろうと思います。韓国人を差別する大家には韓国人の友達がいないのだろうと思い ます。中国人を差別するパチンコ屋店主は中国を旅して中国人に飯をおごってもらった経験がないと思います。もしあったなら、きっと違ってくるはずだか ら・・・。

「差別」についていろいろ考えさせられたプヨへの小旅行でした。

* 韓国人気質: 面倒見のよさは世界一
どこの国にもいい人がいて、悪い人がいます。相性のいい人がいて、相性の悪い人がいます。それでも特定の国・特定の地域の人々には一定の傾向が見られます。それが国民性や気質と呼ばれるものです。アラブ人・特にシリアで感じた国民性は「寛容」でした。日本人は「精緻」でしょうか。では韓国人の国民性・気質は何でしょうか。私は「熱情」だと思います。良くいえば情に厚く、悪く言えば感情的になりやすいということです。情に厚い気質は、身内や友人に対する面倒見が恐ろしく良いという点に良く表れます。
私が海外で親切にしてもらった韓国人は数え切れません。(今気づきましたが、私は常にただ飯をご馳走になっていますね・・・恐縮です。)

・ 韓国 ソウル: 
プヨの事件があった翌日にソウルで会ったKさん。道を尋ねたら日本語で教えてくれた。プサン出身の彼は日本に言ったことがないというのに日本語はぺらぺら。当時(93年)は日本の大衆文化は韓国において禁止されており、日本のアーチストのCDや映画・テレビ番組を鑑賞することはできないはずだった。なにに、彼は「101回目のプロポーズ」(少し前に日本ではやっていたTVドラマ)が大好きで、主題歌を歌っていたチャゲ&飛鳥の曲もたくさん知っているといっていた。どうやら日本文化の「裏ビデオ」「裏テープ」が出回っていたらしい。お気に入りの食堂に連れて行って飯をおごってくれた。93年の韓国旅行で、差別を受けた事件にもかかわらず、気分よく韓国をあとにできたのは、Kさんを初め親切な韓国人との出会いによるものでした。

・某国某町:
留学中のルームメイトのW君は韓国人。いつも料理を作ってくれた。私の好物は彼の純豆腐(スンドゥブ)。私の自転車が盗まれてしばらくの間、毎日私を自転車の荷台に乗せて運んでくれた。私がアパートを退去したあと、物置にプライベート空間を作って居候させてくれた。

・ブラジル サンタレン:
港であって、彼の乗っている巨大コンテナ船を案内してくれたJさん。英語を独学で勉強しているんだとうれしそうに話しながら、ぼろぼろに使いこんでいる英語辞書を見せてくれた。社員食堂でマグロ定食を出してくれた。シンプルなわかめスープひとつで心も元気になった。アマゾンのど真ん中でのアジア飯。日本人と韓国人は兄弟だと感じた。

・中国 ハルビン
朝鮮族のCさん。日本に住んでいたことがあり、奥さんともに日本語ぺらぺら。ホテルと食堂を経営していてただでとめてくれた。妙~に体の温まるスープだと思ったら犬肉スープだった。食堂には「0ゼロ」と「3さん」の文字だけの掛け時計。聞けば、金泳三の選挙活動を支援して感謝の印で送られたのだとか。金泳三の泳(ヨン)は「0ヨン」と、三(サム)は「3(サム)」とそれぞれ同音なのだという。

・ギニアビサウ ビサウ
船の上であった青年の実家にとめてもらっていた私。両替できるところがなく困っていると、その青年が「中国人」の店に連れて行ってくれた。外国人は外貨を常に取り扱っているから両替してくれることが多いのだ。「中国人」の店は、浄化した水をボトルに入れる工場兼倉庫だった。鉄格子をあけて入れてくれた彼ら。私の中国語はもちろんだが、彼らの中国語もなぜか片言・・・地元の人は中国人といっていたけど彼らは韓国人だったのだ。彼らの使用人に頼んで200ユーロを両替してきてもらうことができた。そして焼肉パーティーに移行。「その黒人(私を泊めてくれている青年)にだまされているのではないか」と本気で心配してくれた。

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