2009年4月12日日曜日

アフガン 映画 君のためなら千回でも

1978-2000のアフガンを舞台にしたベストセラー小説を映画化した2007年の作品。Khaled Hosseini作の小説の方はWiki英語版によると全世界で1000万部も売れている! ロシア兵やタリバン兵の非人道性を強調しすぎる等、アメリカ人観客が喜びそうな演出がやや気になりましたが、ストーリーが想像以上にドラマチックでとても楽しめました。レビューや、予告編を先に見ていなくて良かったです。個人的満足度は9/10。

(アマゾンの内容紹介より引用)
まだ平和だった1970年代アフガニスタン。少年時代のアミールとハッサンは兄弟のように育ち強い絆で結ばれていた。
だがある衝撃的な事件が起き、アミールはハッサンを裏切ってしまう。
時を同じくしてソ連軍がアフガン侵攻を決行、2人は歴史の流れに引き裂かれ再び会うこともなかった…。
20年の歳月が流れたが、アメリカで平穏に暮らすアミールの心には決して抜けない棘のように後悔の念が残っていた。アミールは意を決し、今やタリバン政権下となった戦禍の故郷へ危険な旅に出る。
過去の過ちを正すことに遅すぎるということはないのだから…。
(引用終わり)

以下、ネタバレ注意。

*ロケ地はどこ?
ロケがどこなのか気になっていました。
2006年の作品というと、アフガニスタンロケは難しい。西隣のイランでのロケ は、アメリカ映画だから無理。東隣のパキスタンも一部を除いて風土や気候が合わない。舞台のカブールを含むアフガン中・北部は、南アジア・西アジアという より、中央アジア的雰囲気なのです。ポプラ並木やふたこぶラクダが出てくる(アフガンで見るラクダはひとこぶ)のでひょっとして、と思ったらやはり中国の ウイグル自治区で撮っているようです。雪を頂いたヒンズクシ山脈が背後に見える道や、ヒッピーの西洋人といった、明らかに70年代のカブールと思われる シーンが出てきましたが、当時の映像を合成している部分もあるのではないでしょうか。中国ロケなんて信じられないほど、アフガニスタンの雰囲気が出ている 映画だと思いました。

* 主人公が悪役?
金持ちの息子アミールとその金持ちの使用人の息子がハッサン。友達というものの、対等な関係ではありません。凧揚げ大会で優勝するアミールですが、それは全てハッサンの適切な指示どおりに動いての結果。おいしいところだけすくいとって小賢しい感じがします。そのあと、アミールの戦利品として、最後に糸を切って落ちた凧を拾いに行ったハッサンは地元の悪がき3人にレイプされますが、アミールはそれを止める勇気がなく、見て見ぬふりします。さらにハッサンに熟したザクロをいくつも投げつけて投げ返してみろ、とどなります。召使の子供がご主人の息子に反抗できるわけはないのだから、地位を利用した苛めにしか写りません。観客の誰もが許せないと感じるのが、時計をハッサンが盗んだように見せかけるシーンでしょう(問題のシーン)。恥の文化があるアフガニスタン。ババが子供のころから世話になっていたAli(ハッサンの父)でしたが、屋敷で息子が盗みをした以上、住みかと職を提供してもらうことを潔しとせず、ハッサンを連れて屋敷を出て行くことになります。
主人公をこんな悪役に描いてしまって、この映画は一体どうするつもりだろう、と不思議に思いました。しかし、これこそが、作品の狙いだったことは、最後まで見てよく分かりました。

問題のシーン:
ババ:ハッサン、アミールの時計を盗んだのか
ハッサンは、アミールをちらっと見ながら、
ハッサン:はい、盗みました。
本当は盗みなんてしていないのに、卑屈なほど従順なハッサン。ところがもっと驚くのが間髪入れずに発された次の言葉
ババ:許そう。
アミールもはっとした表情を見せます。
相手が許しを乞う前に、咎めることなく相手を許す。これがアフガニスタンで美徳とされる男の振るまい(人間の徳)なのか、と私は感心しました。実はもっと別の意味があることは後から分かるのですが(→ハッサンの秘密)。

誠実で従順なハッサンに対してなぜアミールがつらく当たるのかが映画では不可解に感じましたが、Wiki英語版を見る限り、小説の方は、主人公の心の動きをもう少し丁寧に書いているようです。
つまり、幼馴染のハッサンが路地裏でレイプされているのを見ておきながら助けることなく逃げ出した自分への罪悪感と、何を言っても何をしても従順なハッサンへの苛立ちから、ハッサンを目にするのが辛くなったということのようです。それでも同情の余地はない気がしますが・・・。

*ハッサンの秘密
映画の終盤のいいところでうまい具合に出てきましたね。ハッサン誕生の秘密。
パキスタンで療養中の父の友人に呼ばれて、亡命先のアメリカからパキスタンに旅するアミール。そこでハッサンが死んだ事実とハッサン出生の秘密を知る。召使のアリはSterile(種なし)でハッサンの実の父親ではなかった。ハッサンの実の父はババ。つまり、ハッサンとアミールは異母兄弟なのだと。ハッサンの息子はハッサンがタリバンに殺されてからカブールの孤児院にいるという。名前は「ソーラブ」。アミールがハッサンに50回以上も読み聞かせてあげた小説「ロスタムとソーラブ」のソーラブである。アフガニスタンに行って、連れて帰ってきなさい、と進言する父の友人。タリバン支配下のアフガンに行くことをためらうアミールの背中を友人が押す。「There is a way to be good again.」「 いつでもやり直しはできるんだから」と。とても含蓄のある言葉です。償いを果たすべきハッサンはすでにこの世にいない。それを悔やみ、自責の念に苛まれるアミールはアフガン行きを決意します。せめてハッサンの息子を助けて罪を償うということでしょう。

*ロスタムとソーラブ
映画で何度か出てくる「ロスタムとソーラブ」。ハッサンが大好きな小説で、アミールに幾度となく読み聞かせてもらうのです。ロスタムがペルシャ文化圏のヒーローであることは知っていましたがソーラブは初耳です。映画鑑賞後に少し調べてみました。
アフガンを含むペルシャ文化圏では重要な古典文学である、フェルドゥーシ作「シャー・ナーメ(王の書)」。その一節に出てくるのが「ロスタムとソーラブ」の物語のようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%A0
ペルシャの敵国王子ソーラブはペルシャの英雄ロスタムの子供だが、ロスタムはソーラブが自分の子供という認識がないまま一戦を交えることになる。力ではロスタムに勝っていたソーバブだったが、実の親を殺すことができずためらい、ついにロスタムに殺されてしまう・・・。
ペルシャ文化圏のヒーローであるロスタムはときどきイラン人の名前などに使われていますが、敗者ソーラブを息子の名前に使うというのはあまりないかもしれません。それでもハッサンは、義理がたく思慮深く潔いソーラブの生き様に惹かれていたのでしょう。ソーラブをあえて息子の名前に選んだところにもそんな意味があったわけですね。タリバンに逆らい主人のために留守宅を守って処刑されてしまうハッサンの生き様もまさにソーラブのようでした。死んだハッサンの息子の名前が、ソーラブだと知って、アミールは自責の念に苛まれたでしょう。アミールに裏切られたハッサンが、アミールを恨むどころかアミールとの思い出であるその小説をいつも心に置いていてくれたのだと。映画鑑賞中は気付きませんでしたが、憎い細工だと思いました。

*映画のタイトル
「君のためなら千回でも」という邦題は、タイトルとしてどうなのだろうか、と鑑賞前には思いました。確かに、原題「The Kite Runner」の直訳「凧揚げする人」では間抜けだし、「カイトランナー」とカタカナにしてもピンときません。
ラストシーンまで見たとき、やっぱり「君のためなら千回でも」が一番ぴったりくるのかな、という気になりました。監督のインタビューの中で、原作の中で最も印象に残ったフレーズ2つのうちの一つが、それだと言っていました。
スイス人の監督のインタビューはとても良かったです。原作を読んで特に気に入ったのが以下の2つの言葉で、それを映画に出したかったと。成功していたと思います。
1)For you, a thousand of times over. 君のためなら千回でも
無条件の愛を表しているという。愛と日本語で書くと臭くなるので、「思いやり」の方がぴったりくると思います。
2)There is a way to be good again いつでもやり直しはできるんだから 
テーマはRedemption&Forgiveness 償いと許し
取り返しのつかないことをしてしまった、とか、罪を償うべき相手が亡くなってしまったということは人生において誰にでも起きうることでしょう。観客個人個人が贖罪というものについて考えたのではないでしょうか。


* 映画に出てきたアフガニスタンとその慣習
・アフガニスタンと凧揚げ
アフガニスタンにはタリバン政権崩壊後夏場に2度行きましたが、少年たちが凧あげをしていたかについては記憶がありません。あんまり見なかったような気がします。冬場に盛んな遊びなのでしょうか。
・結婚式などの場で、馬のいななきのような声を女性が発して祝う。アラブ・トルコのクルド地区・などでも見られました。
・プレゼントに夫が口をつけ、おでこにつけ、また口をつけ、おでこにつけ、感謝の意を示す。妻も同様に。
・結婚前は2人きりでのデートができない。女性の親類が付いてくる。これはトルコのクルド人地区を舞台にした「路みち」にも出てきたシーン。でも、アメリカでも出身国の伝統を守っているというのが面白い。移民一世、せいぜい2世だけだと思うが。結婚前の同棲などタブーで、家族全体が村八分(バージニアのアフガンコミュニティにいられなくなって西海岸に家族で引っ越し)
・ハザラ人差別
映画を見ているだけでは良く分からないのではないでしょうか。アミールとハッサンが別民族であることもよく分かりませんでした。(あとで英語版Wikiをみて初めて分かりました。)。異母兄弟というどんでん返しがあるので、露骨な違いを出しにくかったのでしょうね。
アフガニスタンでのハザラ人(モンゴル系)差別は伝統的なもので、映画の中でも触れられている、カブールのHazarajatハザラ人街を私が実際に訪ねた時も、山がちな斜面にそってゲットーのように存在していました。

* 映画で用いられたダリ語(古ペルシャ語)
映画の多くの場面でアフガニスタンの国語であるダリ語がつかわれていたのがうれしかったです。商業的には好ましくないらしく、ダリ語にしたおかげで製作費が集まらなかったとインタビューでいっていました。観客にとっても英語が望ましいのだが、リアルさを追求したのだと。一瞬、拍手をしそうになりましたが、ちょっと変です。だって、パシュトゥーン人だけのシーンでもパシュトー語ではなくダリ語がつかわれているのですから。それとも70年代の上流社会ではパシュトゥーン人同士でもダリ語を話すのが普通だったのでしょうか。現在のアフガン南部のパシュトゥーン人などはパシュトー語しか使わず、ダリ語をほとんど話せない人も多いのでちょっと奇異に感じました。


**** 質問****

ババが死ぬ間際に、枕もとの巨大なダイヤモンド状の物に口付けして眠りにつきますが、あれはいったい何でしょうか。アフガン人にとってとても大切な何かだと思うのですが。御存知の方ぜひ教えてください。

2009年4月11日土曜日

中国内蒙古 映画 トゥヤーの結婚

第57回ベルリン国際映画祭金熊賞グランプリ 2006年・中国映画 なかなかおもしろかったです。
金熊賞をとった作品って外れがないな、と思うこの頃です。個人的満足度は、7/10。



アマゾン内容紹介
(引用)
内容(「キネマ旬報社」データベースより)
ユー・ナン主演、内モンゴルの荒野を舞台に、障害を持つ夫と幼い子供のためにたくましく生きるヒロインの姿を描いた感動作。下半身不随になった夫とふたりの子供を抱えながら生活を支えるトゥヤー。ある日、夫は彼女に離婚して再婚するよう勧めるが…。

第57回ベルリン国際映画祭金熊賞グランプリを受賞した至高の感動作が待望のDVD化!日本でも劇場公開され大ヒット、ヨーロッパ各国をはじめ世界中を魅了した、凛として生きる女性“トゥヤー”の物語!
ヒ ロインのトゥヤーを演じるのは、『マトリックス』シリーズのウォシャウスキー兄弟に“アジア最高の女優”と絶賛され、彼らの新作『スピード・レーサー』に 起用された中国人女優 ユー・ナン。彼女は、本作同様ベルリン国際映画祭でグランプリを受賞した『紅いコーリャン』(チャン・イーモウ監督)のコン・リーや、『LOVERS』 『初恋のきた道』のチャン・ツィイーらに続き、国際的な活躍が確実視されている。
ユー・ナンと本作の監督 ワン・チュアンアンは過去2作品でタッグを組み、国内外で高い評価を受けてきた。世界3大映画祭のひとつ、ベルリン国際映画祭で栄誉に輝いた『トゥヤーの 結婚』は、2人の映画人生において、現時点での最高到達点を示すと言えるだろう。次回作でもこのコンビが実現することが決定しており、中国のみならず、世 界の映画界に話題を振りまくことは間違いない。
ワン・チュアンアン監督と共同で脚本を仕上げたのは、『さらば、わが愛/覇王別姫』『活きる』など、傑作中国映画を手がけてきたルー・ウェイ。不幸な運命に抗い凛々しく立つヒロインの姿を、ときに温かく、ときにユーモアを交えて描き出した2人の手腕は見事だ。
荒 涼としたモンゴルの風土と、色彩豊かな民族衣装のコントラストが織り成す映像美も見所のひとつ。ドイツ人カメラマン ルッツ・ライテマイヤーによる、登場人物たちの素朴な暮らしぶりや人柄、その息遣いまでも伝わってきそうなリアリティ溢れる映像は、まるでドキュメンタ リー映画のように観る者に迫ってくる。撮影前の数ヶ月間、モンゴルで現地の人々とともに生活したというユー・ナンが演じる、化粧っ気もなく、寒さをしのぐ ためにぼってりと重ね着をしたトゥヤーが、美しく感じられる瞬間があることに驚かされる。
厳しい自然の只中で不運な境遇に見舞われながらも、家族 への愛を貫いて生きるトゥヤー。苦難に出会う度、全てを受け入れ、もう一度歩き出してきた彼女が最後に見せた涙の意味は、果たして何なのだろうか。その答 えは、この映画を観た人それぞれの胸に、鮮烈に浮かび上がってくるだろう。
(引用終わり)

* 内モンゴルなのになぜ中国語
本作品は、中国領とは言え内モンゴル自治区の草原を舞台にした、ほぼモンゴル人しか登場しない作品です。モンゴル人はモンゴル語を母国語としています。それなのに、歌の部分を除き、登場人物は中国語を話しています。こんなことは現実ではありえません。言葉は文化の重要な部分。モンゴル語を話してほしかったです。けれど、おそらく、中国語を話さないと中国版映倫が映画を承認しないという事情があるのでしょう。病院に入院するシーンでは病室に毛沢東と鄧小平の絵がでかでかと貼ってあったり、家の仏壇にはパンチェンラマ(モンゴル人は伝統的にはチベット仏教を信仰していますが、中国領内のチベットや内蒙古ではインドに亡命中のダライラマの写真を飾ることはできません。)だったり、と意外な部分で中国政府の抑圧を受けていることが感じ取れました。ただ、内容的には政治的に中立なので、ストーリーが規制を受けているという事はありませんでした。というか、政治的でない脚本にしたのだと思いますが。

*内蒙古の暮らし
1)動物 
ラクダ・馬・羊・猫など動物が結構出てきます。ラクダは、家財道具など荷役用、ヒツジは自分たちの食用及び販売用、馬は乗り物がわり。女性であるトヤや、年端もいかない子供たちがさっそうと馬に乗って駆ける様子は胸がすくような格好良さです。ママチャリや三輪車がわりに馬に乗っているのでしょう。
2)服
ふだんから伝統衣装を着ているのもいいですね。何かの獣でできた伝統的なコートは初めて見ました。
3)家
トヤの家は、モンゴル国で見られるような、ゲル(中国語で包パオ)という丸テントではなく、土壁で固められた質素な家でした。このような、定住だけど放牧型の暮らしをしているモンゴル人は、私が内蒙古を訪ねたとき、二連からフフホトの間で、見ることができました。中国では、移動しながらの遊牧をしているモンゴル人はほとんどいないのでしょうか。
トヤの旦那バータルは、もと、モンゴル相撲のチャンピオンですが、井戸の事故で下半身不随。モンゴルの首都ウランバートルが赤い英雄の意味なので、バータルは英雄という意味でしょう。不毛の土地でも水の確保は不可欠。私がモンゴル北部でテントの周りに井戸があるのを見て、こんなところでよく水が出たな、と思ったのですが、水は出てくるもんじゃなくて、出すんですね。この映画でも、岩盤を60回近くダイナマイトで爆発させてそれでも水が出てきませんでした。実際爆発事故で怪我する人も多いのでしょう。
4)飲み物
馬乳酒を造っているところが出てきました。木のたるに入れた白い液(馬の乳)を木の棒のようなもので上下にかき混ぜるところ。モンゴル国では町中で同じ大きさの大樽に詰めた馬乳酒を通りで売っていましたが、樽はプラスチックでした。白酒(字幕では焼酎となっていました)が頻繁に登場します。結婚式のシーンや、求婚のための訪問などでは、お猪口に入れた酒を指ですくって天と地に向けて飛ばし、そしておでこにつけてから飲んでいました。モンゴル国では、もっと豪快に天井まで着くくらい酒を飛ばしていました。ロシア国内ブリヤート共和国のモンゴル人はちょっと控え目でしたが、西洋的な店構えのドライブインに入ってもやっていました。チベットでは見た記憶がないのですが、チベット仏教の関係でしょうか。それともモンゴルの民族的な伝統?
5)他
結婚式は、子供も大人も伝統衣装。四角い足の短いちゃぶ台のようなテーブルの周りを皆が囲んで、歌ったり。おどるシーンは出てこないで、皆座ったままでした。バートルの横笛が何度かでてきます。馬頭琴は映像としては出てきませんが、挿入曲には馬頭琴が使われているようでした。

*夫連れの再婚
非常にユニークなコンセプト。夫連れの再婚というのは、実際にモンゴル族ではありうるのでしょうか。メンツを非常に重視する漢民族、個人主義の先進国、男性優位の中南米・イスラム圏ではありえない習慣だと思いますが。モンゴル人は伝統的に、宿泊男性客に女性(妻?娘?)を提供する習慣があると聞きますが、見栄よりも実質、利用できるリソースを無駄にしないという哲学があるでしょう。この哲学が、血の一滴も大地に流さない羊の解体方法にもつながるような気がします。
夫バートルは障害者、妻トヤ自らも重労働ができない体になり、夫の姉から離婚を勧められる。トヤは、裁判官に、財産分与と子供の扶養をどうするか聞かれるが、子供は勿論夫の扶養もするという。それでは離婚する意味がないが、子連れ・夫連れでも結婚してくれる人を探すというのだ。生活のため、そして、夫を愛するが故の再婚。裁判官の紹介で(!)、求婚者が何人も馬でやってくるが、夫連れという条件等がネックになって、実現しない。そんな中、トヤの同級生で石油採掘会社の社長が、バートルを養護施設に入れることを条件に結婚するが、バートルが情けなくて自殺を図り、結局は破談に。結局、妻に駆け落ちされた近所の男テンゲーと再婚することに。結婚式では、やけ酒をあおったバートルがテンゲーにつかみかかり、子供は他の子供に「親父が二人」と馬鹿にされ喧嘩になる。それまで一貫して気丈に振る舞ってきた鉄の女トヤが、小さなテントにこもって涙を流す。前途多難を予期させながら映画は終わる。

米アラスカ 映画 イン・トゥ・ザ・ワイルド In To The Wild

特別旅好きというわけではない友人が、私のような旅をしている映画だから是非見ろと勧めるので見ることにしました。


アマゾン内容紹介
(引用)
ショーン・ペン監督最高傑作、衝撃の実話を映画化!
恵まれていた22歳の青年は、なぜ独りアラスカを目指したのか-

1992年アメリカ最北部、アラスカの荒野でクリストファーという若者の死体が発見された。裕福な家庭に育った優等生の彼が、なぜ全てを捨てて旅立ち、2年間の放浪の果てにアラスカで最期を迎えたのか。
ジャー ナリストで登山家のジョン・クラカワーはこの出来事を綿密に取材し、ノンフィクション「荒野へ(原題:Into The Wild)」を発表、一躍ベストセラーとなった。この「荒野へ」に激しく心揺さぶられたショーン・ペンが10年近くをかけて映画化権を獲得。実力派のス タッフ&キャストが結集し、ついに本作「イントゥ・ザ・ワイルド」が完成した。理想と現実のギャップに悩み、全てを捨てて真実を追い求めた主人公 の姿は、見る者すべてに衝撃を与える。
旅の終わりに彼が知った“真実の幸福”とは・・?

主演のエミール・ハーシュは、18キロの壮絶な減量を敢行。実際にクリスが着ていた服に身を包みアラスカに立つ渾身の演技は必見!
他にも、共にアカデミー賞受賞者であるクリスの両親役のマーシャ・ゲイ・ハーデンとウィリアム・ハートや、本作で83歳にして初のアカデミー賞助演男優賞候補となったベテラン俳優のハル・ホルブルックなど、実力派のキャストが結集!

アラスカの壮大な自然、臨場感のある圧倒的な映像美や、映像とシンクロするエディ・ヴェダーのエモーショナルな音楽が作品を盛り上げる!
(引用終わり)

*感想
結果的に共感できる部分は少なかったです。家族に黙って旅に出るところなど、身につまされる部分はありましたが・・・(笑)。
この映画のポイントを一言でいえば、主人公が衰弱死する寸前に本に書きこんだ、「人と分かち合う幸せこそが本当の幸福」というセリフでしょう。冒険・孤独な環境を求めてアラスカの荒野に向った青年が死の間際に辿り着いた境地がそれなわけですが、ハリウッド映画お決まりの落とし所(愛の尊さ・家族愛)だなぁと感じざるを得ませんでした。
自分なりの評価では5/10。ちょっと厳しいか。

* 冒険とは?/私が僻地や離島を旅する理由
映画の中で「アドベンチャー(冒険)」という言葉が幾度となく登場します。しかし、主人公の行動は冒険なのでしょうか。冒険と無謀は違います。冒険家・探検家・登山家と言われる人がどれだけ用意周到に準備しているかご存知でしょうか。テレビで見る冒険番組は、スポンサーがついて予算があり、現地ガイド・コーディネータや多くのスタッフの協力で初めて可能になるのです。それなのに、冬のアラスカの雪原に、テントも地図も食料も持たず、一人入って行くなんて、冒険じゃなくて単なる無謀です。
また、冒険と現実逃避も異なります。家庭の不和とか彼の育った環境がクローズアップされていましたが、その程度の問題、誰だって抱えて生きているでしょう。映画を見ていて主人公の現実逃避ぶりに幼さを感じて気持ちが萎えました。「偽りの自分を抹殺したい」とか、ノートにいろいろ書いている詩的な文章が私の肌に合いませんでした。ファンタジーの世界の住人のようです。サウスダコタの農場でバイトしながら、「アラスカから帰ったら本を書くかも」と言うシーンがありましたが、人と違ったことをして目立ちたかった、結局彼の意図はそれだけのような気がしました。
主人公の青年には、アラスカの荒野じゃなくて、後進国に行って、現地の人と話してきてほしかった。ありきたりでもいいから、人の営みという現実を見てきてほしかった。若い命がこんな風に潰えてしまうのはとても残念なことだと思います。私は、この映画を見て、「俺もこんな風に・・・」なんて旅に出てしまう日本の若者が続出しないことを祈ります。90年代の猿岩石ブームを振り返れば、ありうる気がして怖いです。 

私は旅好きですが、冒険しているつもりはありません。人が住んでいないところには行きません。友人は、私が一人でマイナーな国や離島ばかり行くから、映画の主人公と同様、大自然や孤独を求めていると思って、この映画を勧めてくれたのだと思いますが、そうだとしたら、それは残念な誤解です。どこが誤解かというと、マイナーな国や離島には人の暮らしがなく、文化もない、という無意識の想定が間違っているのです。マイナーな国や離島には、独自の文化と暮らしがあるのです。離島や僻地にわざわざ住むような人は、並々ならぬ郷土心と思いやりを持っています。都会に住んだら失われてしまうような繊細だけど力強い伝統があります。私が世界300国訪問したジョージから聞いた言葉、「Bad Road, Good People」。これが私が僻地や離島を旅する理由です。人がいないところを選んでいるわけじゃなくて、そのユニークな場所にしかない人との出会いを求め、その地の人の暮らしを見に行きたいのです。
私は孤独を愛して一人旅をしているわけではありません。ひとり旅は現地の人とコミュニケーションをとるのに最も適した旅のスタイルだと思っています。実際、ひとり旅だと地元の人がいつも親切にしてくれるので、孤独を感じることはほとんどありません。それなのに、世間から見るとこの映画の主人公と同様に見えるのかと思うと正直複雑です。

世界の国旗 私のお気に入り

国旗は国のシンボル。国旗の色やデザインが国の歴史を示しているのも面白い。シンプルでかつユニークなものがすき。アラブの4色旗、ヨーロッパの3色 旗、アフリカの赤緑黄は工夫が足りない。クロアチアのようにワンポイント付け加えれば生まれ変わるのに・・・。単純に色やデザインで選ぶと お気に入りベスト10は以下のとおり。:

Nepal 唯一四角でない国旗 ユニークでよい
Israel ユダヤ民族ゆかりのデザインも色もすばらしい
AntiguaB 落ち込む配色#1のエストニア国旗と背景色同一なのに開放感と明るさはまるで違う
Angola 世界一勇ましい、男らしい国旗
Turkmenistan 非常に女らしい繊細な柄。絨毯はトルクメンの命。5部族の絨毯の柄を織込
SriLanka まるで御伽噺、思わず開けてみたくなる宝石箱。
UK シンプルな域旗の組み合わせでこんなに美しくなるもの
Japan ボールペンで一秒で描けるシンプルさ。しかも美しい。
Bhutan ドラゴンが良い
Malawi 私が子供の頃から描いていたアフリカのイメージそのもの。条件反射で旅心くすぐられ

なお、私の定義では独立国ではないが、マン島の域旗も好き。
英領マン島はイギリス領とされるが、正確には女王の直轄地CrownDependencyであり、イングランド・ウェールズ・北アイルランド・スコットランドのいずれにも属しない特別な地域だ。リクエストがあればそのうちレポートしたい。
マン島の写真:http://www.kodakgallery.com/I.jsp?c=8z0o9nl.6hxs0d35&x=0&y=5xbepm

(2006.4記)

なお、コダックの写真サイトは5月中に有料化されるので、有料化後継続する意思のない私のアルバム約150は全て消える予定です。興味ある方は今のうちにご覧ください。

2009年4月10日金曜日

中国 90年代前半と2000年代の比較

90年代前半の中国観光旅行は今と比べると本当に大変でした。1ビザ、2両替、3宿泊 4交通 などです。

1 観光ビザ→ 「天津 涙の港編」で触れたとおり
但し、抜け道はあったようで、海南島から入るとビザなし入国ができ、一定期間内であればその後中国のどこで滞在しようと良かったようです。ビジネスマンやよく使っていたと、宮崎正弘氏のメルマガで読みました。

2 両替 
今では当たり前のように日本円を人民元(RMB)を直接両替できますが、当時は違いました。外国人は外貨を外貨兌換券 FEC(Foreign Exchange Certificate)に代えて使わなくてはならず、両替は銀行など限られたところでないとできませんでした。また、FECはどこでも受け取ってくれるわけではないので、「やみ両替」で人民元を入手する必要もありました。
なぜ、そんなことを面倒な制度があったのか、今改めて調べて見たところ、「当時(km注:FECが利用されていたのは1973-1994)の中国では、一般の中国人が使用する人民幣 (RMB) とは別に、この外貨兌換券 (FEC) が流通していた。外貨兌換券と人民幣の額面価値は等価であったが、外貨に両替可能なことや、人民幣では買えない外国製品が買えることなどから外貨兌換券に中国人の人気が集まり、人民幣との闇両替が横行した。闇両替のレートは、FEC1元=RMB1.5元 - 1.8元程だった。」ということ。
つまり、外国人は人民元を直接両替できる場合と比べ、同じものを1.5倍ー1.8倍の金を出して入手していたことになります。人民元とFECの間にも肯定レートと闇レートの差がありましたが、外国通貨とFECの間も政府公定レートと闇レートの間に差があったので、外国人は二重にぼったくられているわけです。公定レートと実質レートの差額は中央政府の懐に入るのでしょうから、外国人から外貨を獲得するというのが国家政策だったのでしょう。当時中国の物価は節約派旅行者にとっても激安(ホテル代を除く)でしたので、問題は物価よりも両替・再両替の煩雑さでした。

3 宿泊
10年で大きく変わったのが宿泊事情ではないでしょうか。90年代前半は宿の確保に苦労したのを覚えています。
1)安宿・旅館(旅社)
外国人は基本的に安宿・旅社にとめてもらうことができませんでした。中国人と一緒に泊まって宿帳や支払いをその人にやってもらったり(天津港)、外国人観光客が来ないような地方の町(通化など)ではとめてくれたこともありますが、外国人が泊まれる高級ホテルに行け、と門前払いされることが多かったです。外国人と中国人民の接触を制限したい政府のお達しだったのではないかと思います。日本人は黙っていれば中国人に見えるし、中国語の声調や単語がおかしくても「どこか田舎から来たのだろう」と思ってもらえるので、泊めてもらえそうになったことも何度もありましたが、パスポートを出して日本人だと分かった瞬間即座に断られてしまうことが多かったです。
また、外国人が泊まれるとガイドブックに書いてある安宿に言っても、「空室がない!」(没有 メイヨー!)と言って取り合ってくれないのが精神的にしんどかったです。本当に空き室がないのならあきらめも付くのですが、実は本当は空き室があることが多く、それでも「ない」と言われてしまうのです。テレビに夢中でこちらを見てさえくれないこともありました。共産主義体制のもと生きてきた人民は、売り上げがなくても解雇されることはなく・一生懸命働いても意味がないので、勤労意欲など持ったことがなかったのでしょう。私は、中国で入国後はじめての町、天津で、2時間探して宿を確保できず、タクシーの運ちゃんに相談して連れて行ってもらった南開大学に泊めてもらえたのは、町についてから3時間たっていました。
西安・新強(カシュガル・トルファン・敦煌)雲南(昆明)成都など観光地は、問題なく安宿に泊まることができました。清潔なのですが、彩がなく、病室のように味気ない宿が多かったです。

2)高級ホテル
高級ホテルは、外人用なので、外人が断られることはありません。しかし、これが中国の生活物価とおよそかけ離れた料金なのです。一泊100ドルとか。当時の私の予算ではありえない選択肢だったのですが、一度だけ、高級ホテル内にとめてもらったことがあります。無料で・・・。
94年に訪問した南京では、安宿はもちろん、宿泊できる大学寮・鉄道学院なども見つからず途方にく れていました。どこの宿でも「xxホテルに行け」というので行ってみたら案の定100ドルクラス。「どこか安いところはないのか」と泣きついたら、高級ホテルの従業員がそのホテルの従業員寮に無料で泊めてくれました。南京大虐殺のイメージしか浮かばない南京に行くときは「アウェー」に赴く気分で したが、「虐殺」博物館見学中を含めて嫌がらせを受けることはなく、むしろ地元の人には本当に親切にしていただきました。


3)大学・学院の寮
留学生がいるような大学・学院には招待所があって、外国人旅行者を泊めてくれることがありました。天津の南開大学や北京の師範大学に宿泊しました。やや町の中心部から離れたところが多いこと、そこにいってみないと泊まれるか分からないのが難点でした。鉄道学院があれば、駅に隣接しているので便利です。大連などで泊まりました。

4)民泊
一般人の家に泊めてもらうことも何度もありました。ハルビンや瀋陽など。→「瀋陽 スイカ爆弾 編」

4 列車の切符
中国は鉄道網はしっかりしていて、利用価値は高かったのですが、需要が供給をはるかに上回っているので、切符を取るのが本当に大変でした。今は廃止されている外国人料金があって、4倍高く払えばチケットを取れることもあったのですが、それが可能なのは、北京・上海など外人用窓口が有る駅だけだったように思います。何日もそこで待つわけに行かない旅行者は、ダフ屋を通して高いチケットを買うのが普通でした。そんな苦労をしてやっと手にする切符ですが、偽切符という落とし穴がありました。偽切符は精巧にできていて地元の人も気づかないほどでした。ハルビン駅で、中国人のCさんが私の為に買ってくれた切符が偽でした。「偽ものつかまされないようにね、」とCさん自ら言っていたので、本人がショックだったようです。私自身は成都で再び偽切符をつかまされました。


なお、80年代に中国を旅した人からは、中国人が人民服を着ていると聞いていましたが、90年代前半に私が旅したところでは、人民服を着ている人はごくごくわずかでした。

インド 映画 スラムドッグ$ミリオネア Slumdog $ Millionaire

4/9(木)夜、スラムドッグ$ミリオネアの試写会に行ってきました。言わずと知れた、2009年アカデミー賞8部門受賞作品です。個人的満足度は、8/10

この映画、私は、正直見なくてもいいかな、と思っていました。なぜなら、世界の映画賞を総なめにしていたので、あらすじはよく知っていたから。けれど、あらすじを知っていても、十二分に楽しめる作品になっていました。日本でも来週末からロードショー公開されるので、是非見に行かれることをお勧めします。音響効果とパノラマが非常に効いている作品なので、劇場鑑賞向きです。

*あらすじ
(Wikiより引用)
インドの大都市ムンバイの中にある世界最大規模のスラム、ダーラーヴィー地区(en:Dharavi)で生まれ育った少年ジャマールは、テレビの人気クイズ番組『コウン・バネーガー・カロールパティ』("Kaun Banega Crorepati"、『フー・ウォンツ・トゥ・ビー・ア・ミリオネア』、日本で言う『クイズ$ミリオネア』のインド版)に出演する。そこでジャマールは数々の問題を正解していき、ついに最後の1問にまで到達した。しかし、無学であるはずの彼がクイズに勝ち進んでいったために、不正の疑いがかけられ、警察に連行されてしまう。そこで彼が語った、生い立ちとその背景とは…http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%B0$%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%8D%E3%82%A2
(引用終わり)

普通に旅行しているだけでは目に触れることのないスラムの暮らしがよく見れた。セットとして作られたスラムではなく、ムンバイの実際のスラムで撮影されているようです。子役たちも本物の住人。
非常にインドの映画・ボリウッドの手法がうまく取り入れられていて感心しました。たとえば、
・悪役がはっきり分かる形で登場し主人公を追い詰める
・男が女を命をかけて守る
・みんなで歌って踊って終わるラストシーン
・血なまぐさいようで決してグロテスクではない
・サクセスストーリーでハッピーエンド(観客が裏切られることはない)

それでいてボリウッド映画では不十分と思われる要素が西洋人作成スタッフの視点で上手に補完されていて、先進国の私たちが見ても飽きさせることがありません。
・ストーリーがあまりに単純でバラエティーがない→原作が素晴らしいのか、ストーリーが印象的
・全編踊って歌ってなのでメリハリがない→ ラストに集中的に持ってきているので邪魔に感じない 
・有名スターに脚光が当てられすぎ →司会者以外はほとんど無名では? 
・カメラワーク・音響効果に工夫がない(手間がかかってない)→ 文句なし。さすがトレインスポッティングのダニーボイル作。何度かのけぞったり、びくついたりしました。
・ロケ地が一か所とかスタジオ撮影が多い(金がかかっていない)→ムンバイのスラムのど真ん中、アグラ、電車のなかとかいろいろ
・タブーが多すぎる→インド映画だと描きにくいリアルな貧困・宗教対立・汚職・外人に対する窃盗などタブーが描かれている


* 印象に残ったシーン(ネタバレ注意)
・ ジャマルがxxxまみれ
実は、仕事の関係で遅刻して、初めの25分見逃しました。私が入場したときは、主人公ジャマルが糞尿まみれになってスターの写真を拾うところでした。いきなり強烈です。
・ イスラム教徒虐殺シーン
ヒンズー教徒らしき集団が棒きれをもってイスラム教徒でいっぱいのスラムに乗り込んできて、無差別に殺戮・放火・・・。ジャマルとサリームの母も撲殺されてしまう。まったくのフィクションなのでしょうか。それともモデルとなった暴動があるのでしょうか。あるとしたら何年頃?
・ 子供の目をつぶすシーン
ギャングのボスが集めて乞食をさせていた子供の中から、取りえがない子供(歌もうまくない、容姿もいまいち)の子供の目を潰す。障害を持っていた方が、多く喜捨を受け取れるから。
・ 盲目の乞食に100ドルあげるシーン
ラティカを助けるためムンバイのスラムに戻った兄弟。そこでジャマルは同じ年頃の少年が物乞いをしているのを見つけて立ち止まる。かつて、ギャングのボスに物乞いさせられていた時の仲間だったのだ。目をつぶされて盲目になっているかつての友達に、ジャマルは、アメリカ人観光客からもらった大金100ドルを喜捨する。
個人的には泣けるシーンがない映画でしたが、このシーンはちょっとジーンときました。
・サリームがラティカを逃がすシーン
なぜサリームがそういう気持ちになったのかがよく描かれていない気がして少し不満でした。
・キスシーン
やっと結ばれた二人。ムンバイの駅のホーム。ありきたりで物足りないエンディングでした。まあ、そのあとにダンス・歌のシーンが続くのでそちらがハイライトなのかもしれませんが。

2009年4月8日水曜日

中国 天津 涙の港

1992年8月、極東アジアに歴史的大事件がおきました。中国と韓国がついに国交を結んだのです。
冷戦下、世界は資本主義体制(西側)と共産主義体制(東側)に二分されていました。朝鮮戦争(1950-)で朝鮮半島が二分されて以来、アメリカが韓国を支援する一方、中国は一貫して同じ体制の北朝鮮を承認・支援してきたのです。ベルリン壁崩壊(89年11月)・冷戦終結(89年12月)・ソ連崩壊(91年12月)と世界が激動を迎えても、極東アジアには大きな異変がなく、北朝鮮と韓国は統一することなく国交すらも樹立できず敵国のままでした。にもかかわらず、北朝鮮を支援し続けていた中国が、北朝鮮の敵国である韓国と国交を結んだのです。当時まだ健在だった北朝鮮の「偉大なる将軍様」金日成は、どんなに面子をつぶされ、どんなに国家存亡の危機を意識したでしょうか。

この歴史的事件により、私たち旅行者も大きな恩恵を受けることになりました。中国韓国の間には次々と定期航路が就航し、韓国から簡単に中国に渡れるようになったからです。このことは中国ビザの取得要件にも影響を及ぼしました。今は15日間までビザなし渡航ができる中国ですが、当時日本人が中国の観光ビザを取るのは困難だったのです。にもかかわらず、韓国中国航路を使えば第三国人でも船の上で中国ビザを安価にかつ即時に取得することができました。厳格なようで抜け道が必ずある、中国という国家そのものを象徴するような魅惑の新ルートでした。

93年6月、私は、この機会を逃すまいと、日本から韓国、韓国から中国を船で渡り、さらに、外国人に開放されたばかりの河口・ラオカイ国境(中国/ベトナム)を越えてベトナムまで行ってみることにした。当時まだイギリス領だった香港をすでに訪問していた私ですが、中国本土に足を踏み入れるのはこのときが初めてでした。

中国行きの船は、ソウル近郊のインチョン港で直接探しました。今でこそ巨大国際空港のあるインチョンですが、当時はまだ空港が未完成で、田舎の港町の風情を残していました。中国ビザの代金は船により・また国籍により異なりましたが、当初予定していた青島(チンタオ)行きの船は中国ビザ料金が100ドルもしたのであきらめ、ビザ代が40ドル程度で済んだ天津行きの船に乗りました。

私の乗った天津号は、意外に綺麗な船で、船の中の女性サービス員も清楚な服を着ててきぱきと服務していました。船には個室もあったかもしれませんが、私のクラスはカーペットが広げられただだっ広い空間に雑魚寝するスタイルです。船には十分な数の毛布と小さな枕が備え付けられていてます。客は、ほぼ100%東洋人。韓国・朝鮮語を話している人が大半だったので、韓国人が中心だと思っていたら、朝鮮系中国人もかなりいました。それが分かったのは、日本に長く住んでいたという朝鮮系中国人Cさんと出会って教えてもらったからです。Cさんは日本に長く住んでいたということで日本語はぺらぺらでした。Cさんと私が日本語で話していると、日本語を話せる中国人が声をかけてきました。彼は旧満州出身のためか日本語教育を受けたようでしたが、普段全く日本語を話すことはなく、その日、実に38年ぶりに日本語を話したという事でした。

一夜明けると、船は、中国天津港に到着しました。船の出口が開けられ、私たち乗客はぞろぞろと船を降りていきました。
ここで見た光景を私は一生忘れることができません。入管の建物の先の出入り口にはものすごい数の出迎え客がいたのです。そして乗客の名を叫んだり、手を振ったりしながら、大声で泣いています。降りてきた乗客たちもそれに呼応するように呼びかけ、そして泣いています。日本人は、「心で泣く」という言葉に表れるように大人が人前で涙を見せることはそうそうありません。しかし、目の前の出迎え客らは、身をよじり声を振り絞っておいおいと泣いているのです。出迎え客の女性の中には、チマチョゴリ(朝鮮の女性の伝統的衣装)を着た女性も大勢いました。最近の朝鮮人・朝鮮族はチマチョゴリを日常的には着ていないでしょうから、彼女達にとって出迎えが、正装するだけの大イベントだということです。

私が目にしたのは、中国と韓国、様々な事情で、離れて暮らしていた親族らの再会シーンだったのです。1950年朝鮮戦争勃発から43年ぶりに会う家族も多かったのではないでしょうか。冷戦下、体制の違う国家に暮らし、会うことのできなかった親族の再会シーンに立会い、私は思わずもらい泣きしそうになりました。

****求む 情報****

この時不思議に思っていたことがあり、今でもそのなぞが解けません。事情をご存知の方、ぜひ教えてください。

1.なぜ生き別れに?
なぜ、それほど多くの朝鮮族が、中国と韓国で生き別れていたのかということです。日本支配時代の韓国から、同じく日本の実質支配化にあった満州へ、仕事の為に渡った人たちでしょうか。そうだとしたら、何故彼らは韓国へ終戦後引き上げなかったのでしょうか。
それとも港にいたのは朝鮮系中国人というより、亡命北朝鮮人(脱北者)が主だったのでしょうか。朝鮮戦争によって、38度線を境に離散家族が生まれたことはそのとおりです。しかし、亡命北朝鮮人は、中国で身を隠すように生きているから、中国の港で出迎えなんていう大胆な行動には出ないのではないでしょうか。

2 「再会」ではないはずの若い人達がなぜ泣いている?
また、中国と韓国の国交がなかったのは、1948年から1992年の約44年間だと思います。余り幼い頃は記憶がないでしょうから、記憶を伴った44年ぶり再会となると、50代以上の人たちになるはずです。しかし、港で出迎えて大声で泣いている人たちの中には明らかに20代30代40代もいるのです。彼らは、朝鮮族だとしても中国で生まれ育っているはずで、断交前の韓国を知るはずもなく、よく知っている家族がいるとは思えません。親の代が韓国から来て、祖父母、従兄弟や叔父叔母を迎えているというなら分かるのですが、一度もあったことのない親戚との「初会」でそこまで感極まって泣くものなのでしょうか。






2009年4月7日火曜日

4 韓国 反日感情と差別

韓国旅行で人気のある目的地といえば、ソウル・プサン(釜山)・キョンジュ(慶州)・チェジュド(済州島)等です。韓国南西部のプヨと言ったら観光地としては名の通ったところではありません。そんなプヨに行くことに私が決めたのは、プヨが古墳時代(3C-7C)の日本と関連が深い百済(くだら・ペクチェ:4C-7C)の都だったからです。当時の日本は百済から有形無形の文化を数多く吸収しました。533年の仏教伝来も百済からもたらされたものとされています。百済が新羅に滅ぼされた際には、多くの百済人が日本に亡命・渡来しました。

これといった特徴のない地方都市のプヨではありましたが、韓国人行楽者に混じって小高い山(扶蘇山)を登ってみることにしました。1時間もかからずに頂上に到達しましたが、昔の王宮などはそのままの形で残ってはいませんでした。それでも、城の一部を再現したような伝統的な建築物から、眼下の町を見下ろすと、かつてのプヨの貴族達が眺めた景色を共有しているような気分になりました。

山を下り、町の食堂(シクタン)に入りました。丼もの屋なら丼もの・麺屋なら麺類と専門店ごとに分かれている日本と違って、韓国の食堂は、焼肉・丼物・麺・おでん・おかゆなど何でも注文できるのが特徴です。とくに、プヨからすぐ南の全羅道はビビンバが名物なので、ビビンバだけでもいろんな種類があるでしょう。どんなビビンバがあるのだろうと胸弾ませますが、テーブルの上にはメニューがなく、壁にも料理の写真が貼ってありませんでした。隣のテーブルにおいしそうな丼飯を食べている人がいます。私は、若い女性店員に声をかけ、指をさして注文しました。
km:これください(イゴ・チュセヨ)
本当は、「あれください(チョゴ・チュセヨ)」が適切な距離感なのですが、いつもメニューや写真をさして「これください」と注文していたので、「あれ」という言葉が浮かばなかったのです。
女:xxxxxxxxxx、xxxxxxxxxx?
女性は、私に何か尋ねましたが聞き取れません。
おそらくは、「あれというのは、xxですか?それともxxxですか?」とか「飲み物はつけますか?」とかそんなことを聞かれたのだと思います。
私は反日感情を意識してできるだけ日本人であることを隠していましたが、この場では正直に話すしかありません。
km: 分かりません(モッタムニダ)。日本人なんです(イルボンサラム・イムニダ)。
すると女性は、奥へと下がっていきました。奥からメニューをとってきてくれるのでしょうか。

ところが戻ってきたのは女性ではありませんでした。「スタスタスタ」という速いテンポの足音が私の背後で止まると、突然Tシャツの左肩の後ろを握られ、罵声とともに、持ち上げられました。びっくりして顔を見ると、食堂のご主人のようです。立たされた私は、主人に背中をパンパンとはたかれ、そのまま扉の外にはたきだされました。抵抗するとか言葉を発する余裕さえありませんでした。丁度相撲の押し出しのように、一瞬で勝負がついたという感じです。私はただ驚くばかりで、追い出された食堂の扉の前で動けずに呆然としていました。

一体何がおきたのでしょうか。私が何か悪さをしたわけではありません。私が日本人だと口にした直後に、主人がつかつかと寄ってきて、私をつまみ出したのです。とすると、主人の行動の原因となったのは私が日本人だという事実以外にありません。これは、日本人差別であり許しがたい暴力です。呆然とした気持ちは次第に怒りに変わりました。店の扉のすりガラスを叩き割ってやろうかと一瞬思いましたが、そんなことを「アウェー」でやってもぼこぼこにされるだけです。気を鎮めてとりあえずその場を離れることにしました。

いったいなぜ食堂の主人は、そこまで日本人に対して憎悪を持っているのでしょうか。おそらくは、日韓併合(1910)後の容赦ない統治や戦時中の残虐行為に対する怒りでしょう。しかし、私は、戦後20年以上たって生まれた世代です。そして、私は首相でも役人でも自衛隊員でもない一個人にすぎません。そんな私と昔の日本政府・軍部の行為とに何の関係があるのでしょうか。隣国である韓国に親しみを感じて海を渡り、日本の兄貴分だった百済の面影を追ってわざわざこの町にやって来たのに、なぜこんな仕打ちにあうのか、と思うと、怒りは悲しみに変わってきました。

プヨには一泊予定でやってきましたが、先の件で観光気分は吹っ飛んでしまったので、そのままバスでソウルに帰ることにしました。バスに乗っても考えることは、例のつまみ出し事件のことばかりです。思えば、食堂の主人の態度は尋常ではありませんでした。初めて店を訪れる客に対して、まるで親の敵を討つような手厳しい仕打ち。

親の敵・・・・・・もしかして、彼にとって日本と日本人は本当に親の敵なのでしょうか。1993年の時点で50歳過ぎの主人は、終戦時の1945年5歳や7歳だったはずです。戦争中の出来事とはいえ、日本軍に抵抗して処刑されてしまった韓国・朝鮮人は少なくなかったと思われます。また、一部の日本帝国軍兵士による暴行・強奪・虐殺・強姦等の犠牲になった地元の人も少なからずいたはずです。主人の世代の韓国人には、両親をそんな風にして失い、孤児として育ち、日本と日本人への憎しみを一日たりとも忘れることなく大人になったという人が何百人何千人といてもおかしくはありません。

もしかすると、主人はそういうような境遇にもと育った一人で、苦労して家族を養い、貯金をため、やっと作ったのがあの小さな食堂だったかもしれません。そうだとしたら、日本人を見るだけでむかつく、自分の食堂には絶対日本人を入れたくないという気持ちは、全く分からないわけではありません。本件の主人の私に対する差別は許せない、けれど、事情によっては全く理解できないわけではない。バスに乗っている間に私の心境はそんな風に変化していきました。

今回、このような形で差別を受けることがなければ、呆然→怒り→悲しみ→許せないけど理解、というプロセスを経て、差別や差別が生じる背景というものについて初めて深く考える機会もなかったかもしれません。
つまり:

1)差別はどこにでもありうる

今回たまたま韓国という国で差別を体験したわけですが、差別は日本でも、そしてどの国でも存在している。自分が差別に加担する危険もあるし、差別されてしまう可能性もある。今まで気づく機会がなかっただけだと思いました。日本でも韓国人には物件を貸さない大家がいたり、中国人お断りと書いたパチンコ屋があったり(93年当時の話です。最近は見ません。)します。

2)差別される側の感情
「差別はいけない」という言葉は、それまで綺麗事でしかなく、リアリティを持って受け止めたことはありませんでした。自分が差別される側になって初めて、国籍や人種で差別することがいけないということを体得した気がしました。
韓国人には物件を貸さない大家 や中国人嫌いのパチンコ屋オーナーは、本件の私のように差別された経験を持っていないのだろうと思います。プヨの食堂の主人も同様でしょう。持っていたならきっと違っ てくるはずだから・・・。

3) 差別する側の事情
差別する側には、差別に至るだけの境遇や体験があって、かつ、誤解を解消する機会を与えられてこなかったのではないか、と考えたのも今回が初めてでした。日 本人を差別する韓国人の食堂主人は日本人に親切にしてもらったことがないだろうと思います。韓国人を差別する大家には韓国人の友達がいないのだろうと思い ます。中国人を差別するパチンコ屋店主は中国を旅して中国人に飯をおごってもらった経験がないと思います。もしあったなら、きっと違ってくるはずだか ら・・・。

「差別」についていろいろ考えさせられたプヨへの小旅行でした。

* 韓国人気質: 面倒見のよさは世界一
どこの国にもいい人がいて、悪い人がいます。相性のいい人がいて、相性の悪い人がいます。それでも特定の国・特定の地域の人々には一定の傾向が見られます。それが国民性や気質と呼ばれるものです。アラブ人・特にシリアで感じた国民性は「寛容」でした。日本人は「精緻」でしょうか。では韓国人の国民性・気質は何でしょうか。私は「熱情」だと思います。良くいえば情に厚く、悪く言えば感情的になりやすいということです。情に厚い気質は、身内や友人に対する面倒見が恐ろしく良いという点に良く表れます。
私が海外で親切にしてもらった韓国人は数え切れません。(今気づきましたが、私は常にただ飯をご馳走になっていますね・・・恐縮です。)

・ 韓国 ソウル: 
プヨの事件があった翌日にソウルで会ったKさん。道を尋ねたら日本語で教えてくれた。プサン出身の彼は日本に言ったことがないというのに日本語はぺらぺら。当時(93年)は日本の大衆文化は韓国において禁止されており、日本のアーチストのCDや映画・テレビ番組を鑑賞することはできないはずだった。なにに、彼は「101回目のプロポーズ」(少し前に日本ではやっていたTVドラマ)が大好きで、主題歌を歌っていたチャゲ&飛鳥の曲もたくさん知っているといっていた。どうやら日本文化の「裏ビデオ」「裏テープ」が出回っていたらしい。お気に入りの食堂に連れて行って飯をおごってくれた。93年の韓国旅行で、差別を受けた事件にもかかわらず、気分よく韓国をあとにできたのは、Kさんを初め親切な韓国人との出会いによるものでした。

・某国某町:
留学中のルームメイトのW君は韓国人。いつも料理を作ってくれた。私の好物は彼の純豆腐(スンドゥブ)。私の自転車が盗まれてしばらくの間、毎日私を自転車の荷台に乗せて運んでくれた。私がアパートを退去したあと、物置にプライベート空間を作って居候させてくれた。

・ブラジル サンタレン:
港であって、彼の乗っている巨大コンテナ船を案内してくれたJさん。英語を独学で勉強しているんだとうれしそうに話しながら、ぼろぼろに使いこんでいる英語辞書を見せてくれた。社員食堂でマグロ定食を出してくれた。シンプルなわかめスープひとつで心も元気になった。アマゾンのど真ん中でのアジア飯。日本人と韓国人は兄弟だと感じた。

・中国 ハルビン
朝鮮族のCさん。日本に住んでいたことがあり、奥さんともに日本語ぺらぺら。ホテルと食堂を経営していてただでとめてくれた。妙~に体の温まるスープだと思ったら犬肉スープだった。食堂には「0ゼロ」と「3さん」の文字だけの掛け時計。聞けば、金泳三の選挙活動を支援して感謝の印で送られたのだとか。金泳三の泳(ヨン)は「0ヨン」と、三(サム)は「3(サム)」とそれぞれ同音なのだという。

・ギニアビサウ ビサウ
船の上であった青年の実家にとめてもらっていた私。両替できるところがなく困っていると、その青年が「中国人」の店に連れて行ってくれた。外国人は外貨を常に取り扱っているから両替してくれることが多いのだ。「中国人」の店は、浄化した水をボトルに入れる工場兼倉庫だった。鉄格子をあけて入れてくれた彼ら。私の中国語はもちろんだが、彼らの中国語もなぜか片言・・・地元の人は中国人といっていたけど彼らは韓国人だったのだ。彼らの使用人に頼んで200ユーロを両替してきてもらうことができた。そして焼肉パーティーに移行。「その黒人(私を泊めてくれている青年)にだまされているのではないか」と本気で心配してくれた。

2009年4月5日日曜日

アメリカ ナッシュビルのフリーミール

1 ナッシュビル
ニューオリンズのジャズを満喫した私は、次にカントリーミュージックの本場であるテネシー州のナッシュビルにやってきました。8月の観光シーズン真っ盛り。ニューオリンズ同様、メインストリートはさぞかし賑わっているだろうと思いました。しかし、実際に歩いてみると、シャッターを下ろしている店も多く、レコード店はどこもほとんど客が入っていません。土曜日の午前中とはいえ、この静けさは何でしょう。

カントリーミュージックの生演奏をやっているカフェに入ってみましたが、やはりほとんど客はいません。Gパンにカウボーイハットのミュージシャンが演奏している曲は私の知らないものばかり。ミュージシャンにとって定番を演奏するのは面白いことではないかもしれませんが、「我が心のジョージア」とか「青い影」とかやってくれたらもう少し盛り上がるのではないかと思えました。例えばニューオリンズの小さなジャズハウスは、プログラムの最初と最後におなじみの「The Saints」(聖者が町にやってくる)を持ってくるなど、観客を盛り上げるための工夫をしていました。

店を出るとき、入口そばにいる従業員に聞いてみました。

㎞:あんまり観光客が町にいないようだけど、夜はもっと出てくるんですかね。
店員:いや、今日は、夜も来ないよ。
㎞:え?
店員:エルビスの誕生日だから観光客はみんなメンフィス(ナッシュビル同様テネシー州の町)に行っているのさ。

エルビスとはエルビスプレスリーのこと。1950年代に一世を風靡したロックンロールのスターですが、私の世代にはなじみがありません。もうとっくに亡くなっているのに、誕生日が一大イベントなのですね。故人の命日をしめやかに偲ぶだけの日本はずいぶん違うものです。

2.Kenとの出会い

店を出てインターネットカフェを探しますがなかなか見つかりません。前を歩いている人はコンビニ袋のようなものを右手に持っています。地元の人でしょう。

㎞:あのーすいません。インターネットカフェを探しているんですけど、この辺にありますか?
男:この辺のインターネットカフェは知らないけど、インターネットなら図書館で無料でできるよ。

アメリカの公立図書館は、無料でインターネットを利用させてくれるのですが、このときはそれを知りませんでした。

㎞:その図書館はどうやって行けますか?
男:案内できるけど、今何時?
㎞:ちょうど12時です。
男:俺、これから飯食べに行くんだよ。無料(Free Meal)を。
㎞:え?フリーミール?
K:興味あるの?

自宅への招待だったら、フリーミールとは言わないでしょう。誰かの家のパーティーに呼ばれているのでしょうか。

㎞:面白そうだけど、こんなカッコじゃご一緒できないですね。

私は、自分のビーチサンダルを履いた足元を指差して、答えた。

㎞:中米で荷物全部盗まれちゃって、靴もはいてないんです。僕の持っている荷物はこれだけです。

私は、パナマで買ったGパンのポケットに突っ込んであるコンビニ袋を取り出して、中に入っているTシャツ一枚とブリーフ1枚を見せた。

男の反応は意外なものでした。

男:問題ないよ。俺の荷物もこれだけだから。
㎞:え?

Kenと名乗るその男は右手に持っている袋を開けて見せてくれました。中には、新品ではない下着が数枚、煙草、ライター、髭剃り、封筒が一つずつ。

地元に住んでいる人だから荷物が少ないのだと思っていましたが、それが全部の荷物というのが本当だとすると、Kはホームレスということでしょうか。

確かに、彼の方からなんとなくすえた臭いがするのですが・・・、よくあるホームレスのイメージとは全く異なります。働き盛りの30歳前後・背筋を伸ばして歩く姿勢・長袖のシャツと靴・幸せそうな表情。

よく分かりませんが、持っている全荷物がコンビニ袋ひとつだけ、という奇妙な共通点を持つ青年の登場に、私は遠い日に生き分かれた兄弟に再会したような親しみを覚えました。

3.グレーハウンドの旅

㎞:ねえ、その手に持っている荷物以外に荷物は本当にないの?

K:そう。本当にこれだけ。

㎞:ナッシュビルに住んでいるわけじゃないんだ?(さすがに、ホームレスなの、とは聞きづらい。)

K: この町に住んでいるわけじゃないよ。夕方にも町を出る。グレイハウンドで。パスPassを持っているから自由に移動できるんだ。

㎞:へー。そりゃいいね。でもパスって高いんでしょ?

K: 政府から毎月補助金を500ドル(約5万円)もらえるんだ。それでグレイハウンドのパスをは十分買える。

Kはホームレスではなくて、旅人だったのです。月々の予算は5万円の。まるで現代のキャラバンのように。グレイハウンドを宿代わりにして、移動もできるなら、旅好きにとっては一石二鳥です。

政府補助が連邦のものなのか州のものなのか、失業保険に相当するものなのかそれとも生活保障なのか、詳細は聞きませんでしたが、意外に計画性があるんだと感心しました。

㎞:じゃあ、Kは、アメリカ中を旅しているんだね。

ところがKは言ったのです。

K: いや。俺は、テネシー・カンザス・オクラホマとその周辺しか行かないんだ。

km: え?? パスがあるんでしょ? いろんな町へ行けるのにもったいないジャン!

K: まず俺は、人の多いところは苦手なんだ。だから大都市は行かない。

私は、97年ブラジルのアマゾンのど真ん中に住んでいた日本人、Nさんの言葉を思い出していました。「都会にいると自分を失う」といったNさんを。

Kはつづけます。

K: それに、ディープサウスは奴隷Slave、東部はミリシアMilitia、北部と西部はきちがいCrazyばっかりなんだ。

私は、もう大爆笑です。

ミリシアの意味が分かりませんでしたが、ペンシルベニアなどに暮らしているアーミッシュ(信仰に基づき現代文化を拒み自給自足の生活を送っている共同体)だとKは言っていました。アーミッシュなんてペンシルバニア州にだって数万人しかいないでしょうに。

4.フリーミール

Kが連れていってくれたフリーミールの会場は、やはりパーティーではありませんでした。xxxFoundationと書かれた看板が入口にあります。慈善団体の施設のようです。小さな赤茶色の扉を開くと、ひんやりとした空気。冷房がかかっています。

中は50畳ほどあるでしょうか。一昔前のスキー・ゲレンデのレストラン(スキー靴のまま入ってこれる様式)のような感じで、木製の長テーブルがたくさん並んでいます。

私は、日本の慈善団体が公園で行う炊き出しのような仮設のフリーミールを想像していたのですが、この団体は専用の場所を確保し、職員を雇い、毎日食事を提供しているようです。

入口を入ってすぐのところにノートがあり、Kが何か書いています。

K: 名前書いて。適当でいいから。

ノートに書かれた彼の名前は、「Ken Catbird(猫鳥)」。そこまで適当にしなくても・・・と笑いながら、私は思いました。ここに来る人の多くは、追及されたくない過去がある人で、名前を聞かれること自体抵抗があるのではないかと。

それでも設営者側で記録をつけるのは、恐らく、職員の食糧横流しなどを防ぎ、利用者数を正確に把握して、提供する食糧の量を決めるのに必要だからなのでしょう。

名前を記入し終わると、エプロン着の職員が、仕切りが入ったステンレスのプレートを渡してくれました。あとは、順番に並んで、おかずを盛り付けてもらいます。昔懐かしい給食のように。

私たちの前に並んでいる男性は、「大盛りにして」と職員に頼んでいましたが、職員は「もっといれる?」という感じで愛想よく対応していました。ファーストフード店よりよっぽど感じがいいです。

その日のメニューは、以下の通りでした。
・スープ
・牛肉片の入ったジャガイモの煮込み
・コールスロー
・ブルーベリーマフィン
・パン(スライス状。茶色でちょっと固いタイプ)

パン・コーヒー・水はセルフサービス。

ジャガイモの煮込みは私にはちょっと塩辛く、入っている肉も硬かったですが、アメリカ人の好みには合いそうでした。ブルーベリーマフィンというデザートまでついているのは期待以上でした。パンは食べ放題なので、大食漢のアメリカ人でも量的には問題ないでしょう。

改めて、室内を見回すと、ランチタイムであるにもかかわらず、利用者は20人くらいしかいません。普段はもっと利用者がいるのではないでしょうか。たぶん、観光客の移動に合わせ、実入りの良いメンフィスに移動している人が多いのかもしれません。

利用者は見事に男ばかりでした。都会では女性のホームレスも見ますが、田舎では何かと困難があるのでしょうか。人種は約半分は白人で、残りは黒人もヒスパニックです。もしかして私が施設初のアジア系かもしれません。

5.Kの夢




*Catbirdは猫のような鳴き声をする鳥のようです。ネコマネドリ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B3%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%83%89%E3%83%AA

2009年4月4日土曜日

アメリカ アラバマの呪文「ワッカナジン」

ファーストフードのエピソードを一つ追加します。ファーストフード店でパニックに陥ったのは後にも先にもこの件だけです。

朝7時にニューオリンズを出発したGreyHoundグレイハウンドのバスは、ナッシュビルを目指してルイジアナーミシシッピーアラバマーテネシー各州を通過していきます。いわゆるディープサウスの一帯です。黒人が多く保守的な地域と言われています。一部黒人の間ではアフリカ起源の精霊信仰であるブードゥー教が広まっていると聞いています。

グレイハウンドに乗るのは初めてでしたが、随分と頑丈な作り。しかも、縦横ともに大柄な黒人ドライバーは、ピストルを身に着けていました。ブラジルみたいにバスジャックが多いのでしょうか。

大きな窓から見えるのは、背の低い木々の緑。アメリカ北部・中西部・西海岸いずれでも見たことのない風景が続きます。バスの中は冷房で寒く感じましたが(アメリカの夏は冷房のせいで寒いのです。)、その点を除けば快適で順調なバスの旅でした。 

バスは、アラバマ州の町でランチ休憩に入りました。私はバスを降りて、バスディーポ(小さなバスターミナル)のファーストフードのカウンターまでやってきました。カウンターの上には、メニューが掲示されています。Combo C(Cセット)はおいしそうなのですが、ComboB(Bセット)との違いがよくわかりません。

カウンターの向かいには黒人女性の従業員がいますが、彼女は私に挨拶もせず下を向いて何か書いています。私がカウンターの前にいるのに、反応なし。やる気がないのでしょうか。それとも、レジ担当ではないから私を無視しているのでしょうか。他には人がいないので、一応彼女に、CセットとBセットの違いを聞いてみることにしました。

㎞:すみません。あのー、Cセットって・・・Amm...Excuse me, Is ComboC・・・

と言いかけたところで、彼女は顔を上げ、私の言葉を思い切り遮りながら、ぶっきらぼうにこう言い放ちました。

女:ワッカナジン!!
km:???

意味不明の奇妙な言葉をぶつけられ、私は、ひるみました。「ワッカナジン」は明らかに英語ではありません。

彼女の敵対的な表情と語気の強さからすると、「私に近寄るな」といったブードゥーの呪文のようにすら受け取れます。しかし、さすがにそれはないでしょう。ここはファーストフードで、私はお客様なのですから。

私は思いました。ファーストフードで客を前にして注文前に店員が口にするとしたら「いらっしゃいませ Hello」に違いないと。しかし、どういうわけか彼女は英語を使っていないのです。

これは、ひょっとして、彼女は私がネイティブアメリカンだと思って、彼女が知っているネイティブアメリカンの言葉である「ワッカナジン=こんにちわ」を使って挨拶してくれているのでしょうか。ディープサウスの小さな町であれば、私をネイティブアメリカンと思ってしまう可能性はあるかもしれない・・・。

私は一応聞き返してみました。
㎞:ワッカナジン?

すると彼女は間髪入れずに、同じ言葉を語気を強めて繰り返すのです。
女:ワッカナジン!!!!!
㎞:???????

もう、さっぱり意味がわかりません・・・。彼女は憎々しいようにそのブードゥーの呪文を吐き出すだけ・・・まるで目の前にいる私という邪悪な精を追い払うかのように。やはり「私に近づくな」というメッセージでしょうか。

㎞:ワッカナジン・・・・・・

彼女はそれ以上の言葉を発せず、実力行使には出て来ることもなく、沈黙の時間が流れています。

私はすっかりパニックに陥っています。「俺、ネイティブアメリカンじゃないし、邪悪な存在じゃないよ。頼むから英語話してよ・・・」

薄気味悪いので立ち去ろうとしたそのとき、私の後ろの中年の男性客が私に話しかけてきました。
男:君、何飲みたいの? What are you gonna drink?

こんなタイミングで、なぜ他の客にそんなこと聞かれるのか分かりませんが、助け船を出してくれているのでしょうか。

㎞:ああ、スプライトです。Oh, I want sprite.

すると女は、なぜかスプライトの注文をとってくれたようで、レジを叩いて代金を請求しました。

「え、まだ食べ物頼んでいないのに。ジュースしか注文とってないよ。」と思いましたが、私は彼女とのやりとりに疲れてしまったので、飲み物だけで済ませることにしました。

ところが、10ドル渡して返ってきた釣りを数えてみると、飲み物にしてはずいぶん高いようです。急いで彼女に確認しようと思いましたが、彼女は中年男の注文を取り始めていて話す機会がありません。

すると今度は、裏方の従業員が、私に対して、トレーを差し出します。ジュースだけでなく、バーガーとポテトものったトレイを。もう、なんだかさっぱりわかりません。私の頭の中はごちゃごちゃです。

トレイをテーブルに運びながら、やっと私はすべての事情が呑み込めてきました。

1)ワッカナジンはブードゥーの呪文でもネイティブアメリカンの言葉でもなく英語である。
2)アラバマ訛りがきついのと、省略を用いているので分かりにくい。
つまり、彼女が口にしたのは、
飲み物何(欲しいですか?)What kind of drink (do you want?)
ホワット・カインド・オブ・ドリンク(do you wantを省略)→ホワッカナ・デュインク→ワッカナジン
3)アメリカのファーストフードでは、「いらっしゃいませ」も「笑顔」もないのが普通。
4)下を向いてはいたが、私の話は聞いていて、私がセットCを注文したと受け止めた。
5)人の話を遮って話すことは、アメリカでは良くあること。

アラバマ訛りの問題はともかくとして、ファーストフードの客への対応としてもうちょっと何とかならないのでしょうか。笑顔が作れなくても、「Hi」とか言えなくても、客が来たら顔をあげて目を見るのが客に対する最低限のマナーではないでしょうか。それに、外国人と思われる客が質問の意味を理解しないと気づいたら、ドリンクメニューを指差すとか、「コーラとか、コーヒーとか、Coke, Cofee?」と誘導してくれてもいいでしょう。

態度もぶっきらぼうすぎます。Cセットの注文を受けたと認識したのなら「Cセットですね」と確認してほしい。飲み物を聞くときは、「お飲み物は何になさいますか。What would you like to drink?」というべきでしょう。お釣りを渡す時も「Thank you」とか一言言えないもんでしょうか。それなのに接客中に彼女が発した言葉は「ワッカナジン」(飲み物何よ?)が2回だけなのです。客の私は恐縮しきりでした。接客のマナーなんてどうでもよいことなのでしょうか。

私の聴解力・コミュニケーション能力の問題と言ってしまえばそれまでですが、アメリカ式ファーストフードの作法とアラバマ英語の洗礼を同時に受けたランチ休憩になりました。


なお、私側の誤解・パニックの背景には、映画エンゼル・ハートの影響があったことを付記しておきます。エンゼル・ハートは、ミッキーローク主演のサスペンス映画で、ディープサウスの黒人のブードゥー信仰に触れられています。ちょっと怖いですが、ぜひ見てください。

*南部の黒人のメンタリティーに見られる人種差別の陰
ジャズの名曲「奇妙な果実StrangeFruit」をご存知の方は多いと思いますが、その歌の背景までご存知の方は多くないかもしれません。これは、リンチ殺人にあった黒人の死体が木から吊るされ放置されている様子がまるで果実のようだという悲しい歌です。

工業化の進んでいた北部に比べ、農業が主たる産業だった南部。人種差別的な煽りではなく、事実だけ指摘すると、農場経営に不可欠だった奴隷の子孫が今も南部で多数を占めている黒人です。
リンカーンの奴隷解放宣言(1862年)・南北戦争終結(1865年)後も、黒人差別・迫害は無くならず、南部では「奇妙な果実」に歌われるような現実が20世紀になっても頻発していたそうです。

黒人の地位や人権は、20世紀後半の公民権運動を通じて少しずつ改善されていったように見えましたが、現在でも黒人の多くは貧困層に属し、2級市民的な存在である とすら言えます。2005年8月にはハリケーン・カトリーナがニューオリンズを襲い、多くの住民が被災しましたが、その大半が黒人だったところは記憶に新しいところです。

南部の黒人の間では、「白人のご主人さまに奉仕する」という事・そのように受け止められかねない仕事に従事することへの精神的な抵抗感が強いと聞いたことがあります。今振り返って、あの時(1999)の深南部アラバマのファーストフードの件を思うと、あの黒人女性のぶっきらぼうな接客態度の裏には、「笑顔振りまいてご主人様にサーブ(奉仕)するような接客なんて私はできない」というメンタリティーがあったのかもしれません。
(2009.4.5追記)

世界 ファーストフード

マックでバイトしていたこともあるほどファーストフードの好きな私。言葉の通じない国でも、おなじみのファーストフードチェーン店を見つけると妙に安心するし、その国でしか見られないファーストフード(FFとします)を探すのも楽しい。概して手軽で、安価で、外れが少ないFF。FFを巡っては世界中でエピソードがありすぎて思い出せないので、思いだしたときに追加していきます。

*アメリカで見たファーストフード
 
日本でFFといえば、明るくて清潔、マックのお姉さんの素敵な笑顔(スマイル=ゼロ円)、といったイメージがあるが、アメリカには、全く逆のイメージの店も多い(地区による)。
1)立地:日本では駅前や繁華街など人が多いところ。でもアメリカは車社会なので、町の中心や駅前よりも、駐車場スペースが確保できて地価の安い寂れた地区にあったりする。私がよく行ったところは、昼でも、銃を持ったガードマンが入口にいる。夜はとても来れる雰囲気ではないので行ったことはない。
2)清潔さ:日本標準で考えるとびっくりするような店が多いです。紙のシートも引かれていないトレイは油でべちゃべちゃしていて見るからに不潔。店内の清掃も行きとどいていなかったり
3)サービス:本当にひどいです。カウンターのおばちゃん・おじさんは決まって不愛想で、スマイルゼロ円なんてありえません。日本では一度なってみたいという子供も多い「マックのお姉さん」ですが、アメリカでは人気のバイト職種でないことは明らかです。注文を忘れられていて受け取りまで25分待たされたこともあります。不器用な人が多いせいかハンバーガーの作りも雑なことが。
4)客層
日本ではFFと言えば、家族連れや高校生で賑わう、明るく安全で健全な雰囲気がありますが、アメリカでは違います。サンフランシスコのマックに入ったところ、マックのお兄さんが、助走をつけてトイレのドアをけり破っていました。出てきた人は白人中年男性は視線が定まらずふらふらしていました。明らかに麻薬中毒です。トイレの中で吸引してらりってしまい、出てこなくなったため騒ぎになったのでしょう。びっくりしました。
こういうことも多いせいか、FFのトイレの鍵は閉まっていて、利用する人がカウンターでいちいち借りていかなければいけないところもあります。
ポパイはケイジャン料理のFF店。世界展開はしていないようだがアメリカでは各地にある。黒人ばかりが住んでいるその地区のポパイのカウンターは、大きな注意書きが。「靴・服を着用していない人お断り。Shirt and Shoes Required」上半身裸・裸足で入って来ちゃうお客さんがいるってことですね・・・。世界一の経済大国アメリカの貧富の差を肌で感じた瞬間でした。
貧富の差が世界一小さい(私見)日本と異なり、アメリカは階級社会。クラスが上の方はFFを馬鹿にする傾向が強いと感じています。また、クラスとは関係なく、健康面でFF店を敬遠している人も予想外に多かったです。
5)メニュー
よく言われていることですが、サイズが違います。ポテトもジュースも日本の1.5倍くらい。値段も手ごろで、80年代では1ドルでハンバーガーセットが食べれました。99年でも、ビックマック2つで2ドル、とかキャンペーンをやっていました。
6)食べ方・飲み方
日本ではポテトはすでについてある塩だけで食べますが、アメリカ人は必ずケチャップ。紙でできた小さなキャップにケチャップを山盛りにしていきます。飲み物は、カップだけ渡されて自分でマシーンから注ぐ方式が多いです。コーヒーは出してくれます。驚いたのが、コーヒーに、ミルク・砂糖4つずつ頼んでいた客がいたこと。遠慮は全く感じられず、カウンターも女性も当たり前のように対応していました。驚くことではないのかもしれませんが、コーヒーって、ほろ苦さを楽しむ飲み物じゃないんでしょうか。

* 偽物ファーストフード店
マクドナルドは、知名度ナンバーワンのFF。後進国でも模倣店をよく見かけます。イラク北部の町スレイマニア。窓から見えるおなじみの大きくて丸っこい黄色いM。「えっ、イラクにマックが?」と思ったら微妙にスペルが違って「マドーナルド」。トーゴのロメ、スーダンのカルツーム、シリアのダマスカスいろんなところで偽物マックを見ました。なぜか「反米国家」に多いのが興味深いです。模倣店の存在はアメリカ人気のバロメーター。政府とは異なり庶民はアメリカ文化大好きだったりするのです。
KFCもよく使われますね。たいていはKが地名や主人のイニシャルになっています。例えばKotakinabaru Fried Chickenの略でKFCとか。東チモールのディリ、インドネシア各都市、マレーシア等アジアに模倣店が多いですが、世界あちこちでも見かけました。東チモールでみたKFCの看板は、色もデザインも本物そっくりなので一瞬びっくりするのですが、実は仕立て屋か何かで、カーネルサンダースの代わりにご主人と思われる人の絵が書いてありました。

* FF店がありそうでなかった国。ファーストフード店を巡る政府の規制
アフリカのモーリタニアだとかチャドだとかに米系FFがないことは想像できます。政情不安・人口が少ない上に、地元の物価に合わせたら利益が出ないし、価格を高く設定しても来るような外国人在住者・観光客がほとんどいないからです。
けれど、国民所得も十分で、外国人在住者・観光客が多いのに、米系FF店が全くない国もあります。
・チュニジア チュニスは地中海に面した都市で、夏はヨーロッパ人観光客で賑わいます。しかし、在住アメリカ人に聞いたところ、地元産業を保護するために、大手米系FFの参入を禁止しているのだそうです。マックとかスタバとかあったら、欧米人はそっちに流れちゃいますからね。
・サウジアラビア
一人当たりのGDPが世界一($86,669、2008, CIAFactbook)になったカタールに代表されるように湾岸アラブ諸国は国民所得が高く、かつ石油関連企業などで働く欧米人も多いので、米系FFはあってもよさそうです。実際ドバイやクウェート、などにはあるのですが、ジェッダでは見当たりませんでした。見落としの可能性はありますが、ワッハーブ派の強い庶民感情や宗教警察の手前、政府がアメリカ系のFF店を認可しにくいのかもしれません。


* なさそうな国にあった本物FF店
・サモアのアピア 
マクドナルド マックのロゴの入ったユニフォームを着た従業員ラグビーチームの写真がでかでかと貼ってあったりする。マックの柄のアロハシャツを着て鞄を肩に掛けで歩いている女性を見た。(写真あり)マック柄のパクリだ・・・。観光客のほとんど来ない太平洋の島国サモアにマックなんてあるわけないから、そう思った。ところが、私はそのあと本物マックを発見したのだ。そして、カウンターの中には女性とお揃いのアロハシャツの面々。・・・彼女はマックのお姉さんだった。ユニフォームを家から着てマックへ通勤途中だったのでしょうか。それとも普段着として利用?それってマックの衛生基準を満たしてないと思うのですが・・・サモアらしいです。
・パキスタンのイスラマバード 
テロリストの巣窟・反米国家の代表と思われているパキスタン。ISB国際空港を出て正面にマックがあります。いかにもテロで狙われそうですが、狙われたという話は聞いたことがありません。私もドキドキしながらも何度か利用させてもらいました。暑いのに外で食べている客が多いです。テロが怖いのか欧米人は自分で買いに来ないで、パキスタン人に買ってきてもらうようです。
・クウェートのマック
・セントルシアのKFC 

* ファーストフードで見た風景
FF店はヒューマンウォッチングや現地の暮らしを把握するのに適したところでもあります。FFを通じて社会が見える。

・エジプト
初めてのアフリカ大陸。初めてのカイロ。到着したばかりで、為替レートもよく認識していない頃。とりあえず落ち着こうと思って、ぼったくられそうもない欧米系ファーストフードに入りました。英系WIMPYsです。あとでレートを計算しながら確認したところ、2000円くらいぼったくられていたことがわかりました・・・。カイロではFFでも息が抜けません。
イスラム国でも欧米系FF店では男女の席は分かれていません。女性や家族連れをまじかで見れる貴重な機会。マックで、乳児をテーブルにのせておむつを替えているお母さんがいました。乳児は靴もはいたまま。誰も気に留める人はいません。

・エストニア 
マックで私の前に並んでいた4-5人のグループ。カウンターでロシア語で注文していました。客席でもロシア語があちこちから聞こえます。エストニアは、ロシア系住民が多いのでそれ自体は不思議ではないですが(私をラトビアでヒッチハイクさせてくれたエストニア人は、職場でロシア語を話さない日はないと言っていました)・・・。あとで聞いたところでは、エストニア系の若者はフィンランド資本のFFチェーン店(名称失念)に行くんだそうです。エストニアはバルト海を隔てたフィンランドと言語・民族的つながりが強いからでしょう。ロシア兵の銅像を撤去して国家レベルのサイバーテロを起こされてしまったエストニア。民族感情の対立がロシア系マックを作ってしまったのですね。

・クウェート
マック。他の湾岸諸国同様、従業員は全員外国人。カウンターはフィリピン人のゲイのおネーさんでした。ハラールミート(イスラム教の方式に従ってアラーの名を唱えながら屠った動物の肉)使用であることが、店舗に明記されています。2階に上がると、大きな窓から、砂っぽい町並みとモスクが見えます。白いおばQ民族服を着て頭の上に布と輪っかを乗せたアラブ人がハンバーガーをほおばっています。

*日本人と海外のFF
・ニカラグア バーガーキング
偶然出会った日本人自衛隊員4人組と町をぶらついていました。4人組は、私服でかつ休暇で来ているのですが、2列x2列の正方形になって行進していました。「危ないから」とか言って。確かに首都のマナグアちょっと危ないですが、明らかに浮いているので笑えて仕方ありませんでした。そんな彼ら、FFがないと生きていけないというのでバーガーキングに入りました。セットメニューにさらにハンバーガーなどを追加して食べています。さらに、帰り際にまたレジに並びました。ハンバーガーを持ち帰っておやつにするそうです。冷めたハンバーガーなんて私は食べたくないし、一日2回はうんざりです。4人ぴったりそろって行動、4人そろってFF中毒っていうのがおかしかったです。
・アメリカ マクドナルド
英語が通じなくて苦労した初海外のアメリカ。車の中から黄色のMを見つけて、「あ、マクドナルドだね」とホストファミリーに言ってみるも、通じません。発音が全然違うのです。中西部の英語では「メクドーノー」でドーのところにアクセントを置くと通じることがわかりました。
その話を友人にしたところ、グアムで「Make donuts! メイク・ドーナッツ」と言われて何の事だか分からなかったが、マクドナルドのことだったそうです。グアム発音で特にそう聞こえるのかもしれませんが、なるほど自分でそのとおり発音してみるとネイティブのそれに近く聞こえると感じました。マクドナルドと言っても通じないときは「メイク・ドーナッツ」と言ってみてはいかがでしょうか。

* 世界の街角ファーストフード
世界共通の味をどこでも提供するマクドナルドやKFCがある一方で、国や地域特有の街角FFもたくさんあります。中には、おいしいのになぜか他の国に伝わらず、その国でしか食べられないものもあります。目の前で繰り広げられる実演が楽しいし、店の人とちょっとした会話も楽しい。レストランで気まずい思いをしやすい一人旅の味方でもあります。私の好物で言うと、
・エジプトのコシャリ(短いパスタ、マカロニ、ライスなどにトマトソースとスパイスがかかったスナック)、
・オランダのクロケット(チーズクリームシチュー入コロッケ、ちょっと塩辛い)、
・エルサルバドルのププサ(トウモロコシ粉の生地の中にそぼろ肉など)、
・ロシア他のピロシキ(総菜を入り揚げパン。ピロシキナヤという専門店あり)、
・トルコのアダナ・ケバブ(スパイシーな串焼き)や鯖サンド、7
・レバノン他のファラフェル(ひよこ豆コロッケのサンド)、
・中国の包子(ジューシーな肉まん。日本のとは別物です。)
・ベトナムのネム(春雨・海老などの入った春巻)、そして、
・たこ焼き(日本)・・・。
機会を見つけて、そのうちまとめてみたいです。

2009年4月2日木曜日

お得な航空券

旅行代金の大半は航空券代。後進国に行き、安宿に泊まり、贅沢をしない私の場合は少なくともそうです。だから、旅行代金を節約するにはいかにお得な航空券を見つけるかにかかってきます。

私がこれまでに使ったお得な航空券を紹介します。随時更新・・・予定。


* 復活希望 デルタ航空 北米周遊チケット

99年当時、デルタ航空は、アメリカ周遊チケットという大変お得なチケットを扱っていました。どこがお得かというと:

・北米単純往復と大して変わらない料金(確か10万円未満) 
・北米6区間付き
・メキシコ・カナダ・バハマ(カリブ海の国)・プエルトリコなどが「北米」に含められる
・オープンチケット
・オープンジョー可能
・順序どおりに使わなくてもOK(6区間を別々のチケットと扱える)
なお、同じ都市で降機するのは一回まで

私が発券してもらったのは以下のルートだったと記憶しています。
1)NRT-LAX-MEX(メキシコ・シティー)
2) MEX-ATL-NAS(バハマ・ナッソー)
3)NAS-ATL-PHL(フィラデルフィア)
4)LGK-YMX(カナダ・モントリオール)
5) YMX-IAD (ワシントンDC)
6) DCA-SJU (プエルトリコ)
7) SJU-EWR (ニューヨーク)
8) PHL-ATL-NRT

今から思えば夢のようなチケットでしたが、このようなチケットはもう売り出されていません。ノースウェストとの合併を機に復活させて欲しいものです。

なお、私は、この紙チケットを含む荷物をコスタリカで盗まれて、チケットの再発行の手間取ったこと・手ぶらでリゾート地(バハマ)に行きたくなかったことから、交渉して特別に、2)をニューオリンズ行き・3)をナッシュビル発に代えてもらうことができました。


* 世界一周チケット
ラウンザワールドがお勧め
私の好きなアフリカと南太平洋に強い。

*準世界一周チケット
マレーシア航空が成田経由でLAXまで飛んでいた頃はあったのですが、KUL-LAXを直行便にしてしまってNRT-LAXは廃止され、準世界一周チケットもなくなってしまいました。

準世界一周チケットの良かったところは、世界一周チケット同様、シーズンの影響を受けることなく一定であること。なので、GWとか年末年始とかチケットが高くなる時期にお得感が増します。

私が組んだルートは、
NRT-KUL-JNB, CapeTown-BUE-NYC, LAX-NRT -でつながっていない部分は陸路移動です。

* 第三国発券

安いチケットを買うため、わざわざ第三国で現地発見の航空券を買う方法です。


* 呼び寄せ便
現地発券 円高のときは使える。

続く

2009年4月1日水曜日

賄賂要求されたらどうする? その2

昨日書いた「賄賂要求されたらどうする?」に関連するエピソードと、いただいた質問への答えを追加しておきます。

*ギニア 難民バスに揺られて

98年、ギニアの首都コナクリでは、「Thank you, Thank you, ECOMOG・・・」(タイトル不明)という歌がはやっていました。仏語圏ギニアで英語の歌がなぜはやったかというというと亡命シェラレオネ人達がたくさん住んでいたからです。ECOMOGというのは、西アフリカの国々が合同で設立した軍事部門で、ECOMOGの介入が、長く続いていたシェラレオネ内戦を終わらせることに成功したとして賞賛を浴びていました。実際には、その数ヵ月後すぐに内戦は再開してしまうのですが・・・。

私は、「もう安全になったから訪問しても大丈夫」というシェラレオネ難民の誘いを受けて、彼らとともにギニアからシエラレオネに行ってみることにしました。帰還難民でいっぱいのバスの中は、長い亡命生活を終えやっと故郷に帰れる人々の歓喜と希望に満ちており、私が体験したことのない高揚感に包まれていました。ものすごい量の荷物を屋根に積んだおんぼろバスはようやく国境に近づきました。あともう少しでシェラレオネです。

国境付近は約500メートル毎にECOMOG, ギニア警察、UN、他諸機関の検問テントが並んでいました。本来それら機関の任務は、停戦を維持するため、残留ゲリラ兵・戦犯を発見したり、武器の持ち込みを防止することだと思われますが、検問所は賄賂地獄と化しており、まさに500mおきに金品をたかられました。
中でもECOMOG(ナイジェリア兵が中心)とギニア警察の検問はたちが悪く、高圧的な態度で臨んできました。

「デ・ジ・タ・ル・カ・メ・ラ? 何だそれは。没収だ。」とか。
「お前、本当はジャーナリストだろう?そうに決まっている。取材許可証はどこだ。ないなら帰れ。100ドル払えば目をつぶってやる」とか。
「コレラのワクチンを打っていないじゃないか。200ドル払え、さもなければ、コナクリに戻れ」とか。

ところで、コレラのワクチンは効き目がないので、WHOが摂取推薦リストから除去しており、ほとんど実施されていないのです。仮に私がコレラのワクチンを打っていても別の口実を使ってきたことでしょう。大体、入国者のワクチン接種を確認するならともかく、これから出国しようとする者のワクチン接種を確認することにどんな意味があるのでしょうか。結局私が支払ったのは一箇所で20ドル、もう一箇所で10ドル相当で済みましたが、賄賂要求の波状攻撃にほとほと疲れました。
テント村の軍人達は、外国人である私のみならず、バスの乗客全員を下ろし、荷物を紐解かせ、難民一人一人に対しても金品を要求していました。私たちは、バスの窓からテントが見えてくるたびびくびくしながら何のテントか確認しました。UN関連のテントだと、賄賂の要求はないので、一同安心したのを覚えています。
朝10時にコナクリを出発して、検問を通過しながら国境に着いたのは夕方5時になっていました。道も悪かったし、エンジントラブルがあったとはいえ、100kmの距離に約7時間もかかったのは検問のためです。

* ギニアーシェラレオネ国境 2005
2005年に、全く同じ道でコナクリからフリータウンまで移動しましたが、98年に見たテント村は幻のように消えていました。コナクリから国境まではタクシーをチャーターしたこともあり、2時間足らずで国境に到着しました。何箇所もの机でノートに自分の名前を書く旧態依然とした入管手続きを終え、シェラレオネに入国。ミニバスに乗りました。フリータウンへ続く道路は、内戦などなかったように、綺麗に舗装されていました。外国や国際機関の援助あってこその復興だとは思いますが、廃墟だらけでぼこぼこの道しかなかったシェラレオネの復興を目の当たりにして、熱いものがこみ上げてきました。
ギニアは、先月(2009.2)クーデターにより、政権が崩壊しました。シェラレオネ難民・リベリア難民でいっぱいだったギニアですが、ギニアが混迷を深めれば、今度はギニアの難民がシェラレオネやリベリアに亡命しなければならないかもしれません。98年に見たような検問テントが復活するのでしょうか。


* 腐敗というのは酷かも・・・

コンゴ民主、キンシャサの町をいろいろ案内してくれたTは、運転していた車の窓から、交通整理をしている警察官に小銭を渡しました。何も要求されていないし、嫌がらせを受けそうな雰囲気ではないのに、何故そんなことをするのだろう。聞くと、「警察官は給料もほとんどもらえずかわいそうだからあげるのだ」という。コンゴは、首都中心部以外は道路は全く整備されておらず、道路標識すらないような国。警察官や軍人への給与も微々たるもので支払いの遅延や不払いも多いということ。

確かに、給料もほとんどもらえないのに、炎天下で交通整理している警察官に、「ご苦労様」の気持ちが生まれてくるのも理解できるように思いました。
そして、警察官だって生活がかかっているのだから、金を稼ぐ必要がある。公務を遂行しているのに政府が払ってくれないのなら民衆から、という心情も全く理解できないわけではありません。

先進国にはない、給料をもらえない公務員の状況をわきまえずに、「賄賂=腐敗=悪」と言い切ってしまうのも、ちょっと酷なのかもしれません。

* 賄賂肯定派になってしまいそう・・・
パキスタンの警察官の月給は3000ルピーだそうです。http://www2u.biglobe.ne.jp/~AKICHAN/afgnst.htm 現在のレートで約3500円。一日あたり100円です。
今日のニュースに代表されるように、常にテロの対象とされ命かけて仕事していて、それで一日100円。子沢山のパキスタン人、これじゃ、賄賂でももらわないと生活していけないよ・・・。現地の警察から何かくれといわれたとき、むげに断らずタバコくらいあげればよかった、と今になって思いました。もうちょっと臨機応変に対応しても良いかもしれません。
パキスタン:武装集団立てこもり 15人死亡95人負傷
パキスタン東部ラホールの警察訓練所に30日朝、自動小銃と手投げ弾で武装した集団が押し入り、訓練生ら数百人を人質に立てこもった。警官の制服に着替えて武器庫から銃などを奪い、警官隊と交戦。治安部隊が突入し、事件発生から約7時間半後に制圧した。交戦中、実行犯のうち3人が自爆、3人が逮捕され、数人が警官に紛れて逃走したとみられる。治安当局によると、死者は大半が訓練生で15人、負傷者は95人に上った。毎日新聞 2009年3月30日 http://mainichi.jp/select/world/asia/news/20090331k0000m030065000c.html

* 他の旅行者は賄賂の要求に対してどう応対しているか

質問をいただいたので、追記しておきます。

私も興味あるテーマですが、一般化して答えられるほどデータがないというのが実際です。
アフリカでも、観光で旅行者がやってくるのはたいてい北・南・東アフリカです。一方賄賂地獄は、西部・中部アフリカです。そのため、賄賂にどう対処したかという話題のサンプルが少なすぎて一般化できません。
西部・中部では、バックパッカーが集まるような宿はほとんどなく、他の旅行者に会う機会も非常に限られてきます。この地域で私が遭遇した日本人旅行者は、おそらく3人だけです。2003年にナイジェリア(カノ)で会った人は、ガボンから赤道ギニアを経由せずカメルーンに入国したそうですが、ガボンの地方の警察の賄賂要求はあからさまでかつ執拗だったと言っていました。支払わざるを得なかったようです。98年にガーナ(アクラ)で会った人は、ギニアに太鼓修行に行っていたのですが、自然災害(増水)にあって大変だったようで、賄賂の話はほとんどしなかったです。03年にチャド(ンジャメナ)であった女性は、ボンゴールなど郊外に行っているにもかかわらず、被害に直面していないようでした。チャドの腐敗振りもひどいのですが、女性には甘いのかも。
西部・中部アフリカであうヨーロッパ人は、フランス人が多いです。彼らはフランス語圏では言葉に困らないし、フランスの援助あっての国々が多いので、現地公務員に対して、強い態度で臨むことができます(多くの国でビザも免除されています。うらやましい。)。そのためか、賄賂対策で困っているという話は余り聞きません。
モーリタニア国境で、何も要求されていないのに自主的にパスポートに小銭をはさんで渡している外人を見ました。国籍不明の白人でした。なお、私は要求を断ったためしばらく待たされましたが、問題なくスタンプをもらうことができました。
なお、賄賂対策の方法(1)としてあげた、レシートを要求してあきらめさせる、というやり方は、私自身が南米でヨーロッパ人旅行者から教えてもらったものです。アフリカでもヨーロッパ人がつかう一般的な対策かもしれません。

2 初海外はアメリカ

初めての海外は大学1年生の夏、アメリカでした。縁あってアメリカ中西部のWisconsinウィスコンシン州の町でホームステイさせてもらうことになっていました。ひと夏の経験ではありましたが、受けたカルチャーショックは3年分くらいありました。

1) 言葉の壁 
今ではビザ免除プログラムのもと、ビザなし渡航できるアメリカですが、当時はまだ観光ビザが必要だったため、旅行代理店を通じて取得していきました。パスポートを使うのも、飛行機に乗るのも初めてで、外国人と英語で話した経験もほとんどなかったため、とても緊張していました。成田発シカゴ行きの飛行機は無事到着し、入国手続きも済ませました。当時オヘア空港は飛行機発着数が世界一と言われていて、ターミナルだけで5つもある大きな空港でしたが、国内線の乗り継ぎも何とかできました。でも順調に事が運んだのはここまででした。

定員20人くらいの小さなプロペラ機はずいぶん揺れながら30分くらいで到着しました。ところが到着地は最終目的地ではありませんでした。実は機体トラブルがあってシカゴまで出戻っていたのですが(道理で揺れたわけです)、私は英語アナウンスが聞き取れず何も分かっていませんでした。どうやら別の便に乗せてくれるということで振り替え便の搭乗券を渡され、私は同じゲートの椅子に座って2時間ばかり待っていましたが、出発予定時間になっても搭乗案内はありません。振り替え便は別ゲートからすでに出発していたのです。

空港職員に相談すると、いろいろ聞かれるのですが、何を言っているのかよく聞き取れず、また聞き取れても何と答えていいのか分からず口ごもるばかり。オフィスに連れて行かれ、「英語の分からない日本人だよ」と同僚に話しているのだけは聞き取れました。「君は日本人か。じゃあ、侍か。違う?じゃ、忍者か」 など冗談を言う陽気な職員に囲まれながら、私は一人絶望的な気持ちになっていました。まがりなりにも中学高校で6年間勉強して来たのに、全く英語が分からないというのはとういうことかと。この先ひと夏のホームステイを生き残れるのかと。

2)自分の意見は 
荷物を部屋に置いて、リビングに行くと、ホストマザーのDLが私に尋ねました。
DL: あなた、コーヒー飲む? Do you want some coffee?
km: はい。 Yes.
DL: ・・・それとも紅茶にする? Or do you want some tea?
km : ・・・はい。・・・Yes.

正直、私にとってはコーヒーでも紅茶でもどちらでもいいのです。適当に出してよ、という感じです。

けれど、DLは私の正面にやってきて、私の目を見据えながら問いただしました。

DL:・・・は?・・・あなた、コーヒーと紅茶、どちらが好きなの??私は、あなたの好みを聞いているのよ。 ・・・What? Which do YOU like, coffee or tea?? What is YOUR preference?

家に招待されて「何を飲むか」と聞かれたなら、「どうぞお構いなく」とか「何でも結構ですから」とか遠慮して、出てきたものがたとえ自分の好みに合わなくてもありがたくいただくのが日本の流儀です。今は違うかもしれませんが、自分の好みをはっきり出すことははしたないと忌み嫌われる風潮が私の子供のころにはありました。好き嫌いを言わず何でも食べる。嫌いなものがあっても全部食べるまで帰宅できない、「居残り給食」というお仕置きまであったのです。

でもアメリカでは違います。自分の意見を言っていい。そして自分自身の意見をはっきり言わなければいけない。日本では自分の意見を言わないことが謙遜として美徳とされますが、アメリカでは、自分の本心を隠して言わないことは、かえって不誠実であり、相手に不信感を与えることなのです。そして自分の意見を理由とともにいうことを子供のころから教育されており、自分の考えと理由をはっきりと言えない者は、大人と看做されないのです。

コーヒーの例に戻ると、コーヒー・紅茶、2つの選択肢があったなら、通常はどちらか一方が好きなはずです。相手の手間だとか、ほかの人が何を注文するとか、ごちゃごちゃ考えず、アメリカでは、自分の好みを端的に言えばいいのです。「どちらでもいい」は日本では謙虚と受け取られても、アメリカでは投げやりで失礼と受け取られます。コーヒーか、と聞かれて生半可な肯定をしつつ、紅茶をも肯定する、それもおかしな状態です。紅茶にするなら、コーヒーの注文をはっきり取り消さなければ混乱するし、英語を理解していないと思われてしまいます。両方飲みたいなら、はっきり「Both どっちもください」と言ってもアメリカではOKです。但し、その場合は「どっちも試してみたいから」など理由を言わないと舌足らずです。とにかく自分の意見をはっきりということが、アメリカでのコミュニケーションにおいて非常に重要だということが、ホームステイを通じてわかってきました。

些細なやり取りでしたが、自分の意見をはっきり言っていい、むしろ言うべき、ということは私の気持ちをとても楽にさせるものでした。

・ He do not know
地元の人が[He does not know]というべきところを[He do not know]と言っていた。びっくりである。自分の意見をはっきり言っていいこと、文法も気にしなくていいこと、この2つでコミュニケーションのハードルがだいぶ下がったと感じた。妙な自信がついた。

* ホスト家族
(前略)複雑な事情があるのに、よくまとまった家族だと、感心しました。
・年の離れた夫婦
・年の近い母子
・前夫が前妻の家にやってきて楽しそうに話している
・前夫が子供を旅行に連れ出す
・父と子供の血がつながっていない
・兄妹は異父兄弟
・関係不明な居候(一妻二夫?)

* 田舎の暮らし
アメリカの映画では必ず白人・黒人・ヒスパニック・アジア人等様々な人種が登場します。世界でも珍しい(ほぼ)単一民族の国から来た私にとって、人種の坩堝・文化の多様性ほど心動かされるものはありません。
私のホームステイ先は、Mukwonagoムクワナゴーという町にありました。なんだかとてもエキゾチックな名称です。それもそのはず。ネイティブアメリカン(Native American=アメリカインディアン)の土地だったこのあたりにはネイティブアメリカンの言葉による地名が多いのです。
けれど、ムクワナゴーにはネイティブアメリカンなど住んでいませんでした。開拓時代に抹殺されたか土地を奪われ追放されてしまったのでしょう。白人しか見かけませんでした。人種の坩堝・文化の多様性は、NY・LAなど大都市のみで見られること。中西部の一帯はこの町同様ほとんど白人だけの世界なのです。
(略)
・車社会
・TVチャンネルは100もあるのにコンビニもない
・トウモロコシ畑と地平線
・スタンドバイミーのような線路が続く
・5ドルディナー

* 日本を知らない大人たち
(略)私は、ホスト夫婦の店にいながら、やってくる客を観察していました。小さな町だから皆顔見知りのようで、買い物をしにきているのか、雑談に来ているのか分からない状態でした。
皆陽気で気のいい白人たちなのですが、困ったことに日本のことをまったく知らないのです。

「ああ、日本から来たの。俺の姪っ子がこの前香港に行ってきたんだよ。夜景が綺麗だったってさ」
だからどうなのでしょう。香港は日本の一部ではありません。

「日本にはサムライが何人くらいいるのだ?あの太っている人たち。」
サムライは日本にもういません。ひょっとしてスモウとごちゃ混ぜになっています?
空港で私に「お前はサムライか、忍者か」とか聞いてきたのは冗談かと思っていましたが、もしかして本気で聞いていたのかもしれません。

小さな子供の質問ならともかく、大の大人が日本のことをまるで知らないのにショックを受けました。

ある晩、ホスト家族とテレビで「キリングフィールド」という映画を見ていました。カンボジア内戦を取り扱った戦争映画です。
私の英語の聴解力はひどいものでしたが、あらすじを知っていたこともありなんとかストーリーをたどっていました。カンボジア兵がアメリカ人記者にクメール語で何か警告しているシーンで、ホストマザーのDLは私に尋ねました。
「このカンボジア人、何て言っているの?」
・・・彼女は私がクメール語を理解できると思っているのです。カンボジアは日本にとって遠い国、言葉も文化もまるで接点がない、と思っている私。けれど、彼女にとっては、同じアジアの日本とカンボジア、文化も言語も共通の要素がたくさんあるでしょ、となるのです。
km「日本とカンボジアは全然別の国だよ。クメール語なんて僕には分からないよ」
DL「あら、そうなの? 日本語もクメール語も全く同じに聞こえるわ」

世界を旅して回るうちに、ああ、自分はあのときのDLと同じだったんだ、と自分の偏狭な考え方・無知を知る機会が多々ありました。

例えば、アフリカに実際に行ってみるまで、ケニアもガーナもほとんど区別がついていませんでした。槍持ってジャンプしている人たち(ケニアのマサイ族)がガーナにもいると思っていたのです。実際は言葉も文化も歴史もほとんど共通にしていないのに、同じアフリカの国なんだからどっちも似たようなもの、というイメージしかなかったのです。

まるで、香港と日本を混同していた田舎町のグロッセリーの客達のように。

例えば、トルコからシリアに南下するとき、私が覚えたトルコ語もシリアでマイナーチェンジさせるだけで通じるだろうと思っていました。アラブもトルコもイランもごっちゃになっていたのです。どこも中東の国だから、とひとくくりにしてしまう。

まるで、日本語が中国語やクメール語とほとんど変わらないと思っていたDLのように。

日本を知らない大人たち同様に、私も日本以外の世界を知らなかったのです。

(続)