2009年3月28日土曜日

グルジア 生きていたグルジア正教

* 生きていたグルジア正教

少女が教会の前で立ち止まり、控えめに十字を切って、小走りに走り去っていった。裏通りにある小さなグルジア正教の教会の前の小道だ。

「なんて美しい光景だろう。」
私は金縛りにあったようにその場に立ちすくんだ。アゼルバイジャンから陸路グルジアにやってきた私は、このような光景に出会うことを全く予想していなかったから・・・。

共産革命前まで「イスラム教国」だったアゼルバイジャンは、とても世俗的な国になっていた。街中でお祈りしている人を見かけることはなく、お祈りの呼びかけ(アザーン)を聞くこともなく、モスクすら見あたらなかった。無理もない。ソ連内部の共和国であったコーカサス諸国(アゼルバイジャン・グルジア・アルメニア)では、70年に及ぶ共産主義の下「宗教はアヘン」として弾圧されたはずだから。

「70年という月日はひとつの文化や宗教を抹殺してしまうのに十分だったのだ」
アゼルバイジャンの首都バクーや北部の町ゲンジェを旅しながら、そう私は感じていた。

アゼルバイジャンの隣国グルジアでも、一度葬り去られた宗教が復活していることはないだろうと思った。教会があったとしても観光用に過ぎないのだろうと。 ガイドブックにもソ連時代には多くの教会が劇場や牢屋として使われていたと書いてあったのだ。

だから、グルジアで、お年寄りのみならず小さな少女までが、神に対する敬虔な宗教心を持っているのを目の当たりにして、いたく感銘を受けた。

私は吸い寄せられるように、教会の中に入っていった。入り口は石の階段を少し降りたところにあった。カトリックやプロテスタントでは階段を上って入り口があるところが多いが、下がり階段は正教の特色なのか、それともこの教会特有の点なのだろうか。

薄暗い教会の中は、心洗われるような歌声と、窓から差し込む光で、神々しい雰囲気に包まれていた。いかにも異教徒の私が入っていくのは少し申し訳なかったけれど、私の存在を気に止める人は誰もいないようだ。

石造りの質素な空間には、長椅子は並んでおらず、信者が30人くらい立っていた。石造りの建物の内壁にはイコン絵の小さな額縁がいくつも掛けられている。これまでに見たカトリック・プロテスタント教会とはずいぶんと違う気がする。

黒帽子をかぶり、ゆったりとした黒服を着て、お香の入った金属の入れ物を振り歩いている人が神父であろう。神父は周りを取り囲む信者の額に十字架を当て、そのあと手のひらサイズの箒のようなものを振りかざす。まるで邪悪な気を取り払うおまじないのように見えるがどんな意味があるのだろう。

十字の切り方は、上→下→右肩→左肩の順だから、ギリシャ正教その他の正教(オーソドックス)と同じようだ。カトリック・プロテスタントと順序が異なるのはなぜだろう。

信者は老若男女。家族連れもいる。出勤前に立ち寄ったのか、スーツの男性もいる。女性は黒服が圧倒的に多く、皆スカーフで髪を覆っている。お辞儀している人、ひざまづいている人、左頬を寄せて柱にキスしている人、細長いろうそくに火をつけている人、・・・さまざまで面白い。

熱で曲がった蝋燭がじりじりと音を立てて溶けていくのを見つめながら、中世の雰囲気に浸っていた私は、大きな音とともに不意に現代に引き戻された。

誰かの携帯電話が鳴ったのだ。
(グルジア訪問1回目2000年時の手記。2回目訪問は2006年)


* コーカサスにおける宗教弾圧の程度(私見)
コーカサス3カ国の中で、アルメニア・グルジアのキリスト教国は信心深い人が多いのに、イスラム教国のアゼルバイジャンはとても世俗的に見えた。この違いはどこから来るのだろうか。

思うに、アゼルバイジャンの場合は、トルコ・トルコ系共和国との団結や国境を接するイランの影響を阻害・排除するためにイスラム教を徹底的に弾圧する必要があった。対して、オーソドックス(正教)を通じて影響力を行使しうる隣国は存在しないので、ロシア正教・グルジア正教などの弾圧は徹底していなかった。他にいくつも要因があるだろうが、グルジア・アゼルバイジャンの宗教心の復活度における際立った違いの裏には、このような背景があるのではないだろうか。このあたりの事情をご存知の方、ご連絡いただければ幸いです。

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