2009年3月28日土曜日

台湾 片倉佳史「台湾に生きている日本」

* 台湾に生きている日本

(アマゾンの内容紹介より引用)
50年間の統治で、日本と日本人が築いた数々の事物は、いまもこの地に生きている。歴史的建造物、産業遺産から、日本語、日本精神まで、台湾が「保存」しておいてくれたという奇跡を、われわれ日本人は見逃してはならない。台湾を愛し、日本の名残を求めて台湾全土を踏破した著者による空前の「日本遺産」ガイド。
(引用終わり)

在台湾10年超のライター片倉氏が、自分の足を使って台湾各地を歩き回り、地元の人に自らインタビューし、徹底的に調べた上で書いた渾身の一冊。地元の人に義愛公として祀られている森川巡査の話、皇民化運動のシンボルになった原住民少女サヨンの話、元日本軍将校であることを隠し蒋介石の軍事顧問として活躍した白団の話、どれもとても興味深い。

後半にまとめられている、台湾語または部族語に取り入れられ台湾に残っている日本語のコーナーも面白い。「テンプラ」(さつま揚げの意味)、「ゆっくりね」、「あいのこ」、「運動会」、「セイロガン」、「シナジン」、「おじさん・おばさん・奥さん・アニキ」、「校長先生」、「ケダモノ」などなど。

戦前日本統治時代に生まれた日本語教育世代は高齢化が進みどんどん少なくなっている。それとともに台湾に生きている日本の文化も失われていくのが非常に残念だ。


* kmの見た「台湾に生きている日本」

初めて台湾に行ったのは95年。まだ羽田から就航していた中華航空でインドネシアに行く途中で台北にストップオーバーしました。当初予定していた台南行きは、台風接近のため諦め、行く先は特に決めず台北から鈍行列車で南に向かいました。戦前の日本を思わせるような懐かしい光景に惹かれて列車を降りたのは、新竹あたりだったと思います。

ホームで写真を撮っていると、台湾人のおじいさんが「日本人ですか」と日本語で声を掛けてきました。なぜ私が日本人だと分かったのか不思議でしたが、もっと不思議に思ったのは、私と日本語を話せることがうれしくて仕方がないという彼の様子でした。日本語教育を受けた世代であるとしても、戦時中の忌まわしい思い出から日本語を聞きたくないと思っているアジアの人たちは多いし(→ 私が韓国で食堂からつまみ出された話)、戦後日本語を使う機会がなければ忘れてしまうはずだからです。

何を話したのかは覚えていませんが、私達が使うことのない古めかしい語彙が混じるほかは、訛りもなくきちんとした日本語を流暢に話すのにとても感動しました。鄙びた駅のホームの端っこでそのおじいさんは、私に日本の軍歌を2曲歌ってくれました。けれど、私が知っている軍歌と言えば、同期の桜と軍艦マーチくらい。おじいさんがうたっている歌は間違いなく日本語で、いかにも国を称えて進軍を鼓舞するような歌詞なのですが、私にはまったく聞き覚えのない歌でした。私の知らない私の国の歌を、かつて支配下においた台湾のおじいちゃんが私に歌ってくれることが、とても不思議であり、とてもありがたいと思ったことを覚えています。

このときの駅は「新竹」だったとかすかに記憶しているのですが、「新竹」と言えば90年代後半には台湾のシリコンバレーと言われた工業地帯。あの鄙びた駅が新竹というのは記憶違いだったのでしょうか。ホームから撮った写真が一枚あるはずなのでそのうちアップします。どこの駅だか分かる方教えてください。

台湾では、片倉氏の本に出てくるような変わった日本語も耳にしました。「べんとう(弁当)」「うんちゃん(運転手)」などです。下の写真は、どこかのお寺で私が撮ったものですが、「喧嘩(けんか)禁止」という注意書きがあります。これも日本統治時代に入った日本語だと思うのですが、いかがでしょうか。それにしても、寺で喧嘩というのは台湾では良くあることなのでしょうか。
(追記)中国語で「喧嘩」 xuan hua は、日本語の、騒々しい、大声で騒ぐの意味だそうです・・・http://blogs.yahoo.co.jp/mautano5/8107918.html
日本語じゃないですね。私の勘違いでした。済みません・・・
 
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