2009年3月7日土曜日

ペンダント「パレスチナ人の涙」

エルサレム方面からパレスチナ自治区ヨルダン川西岸に直接入ることができるバスはなかった。イスラエル政府が建設した悪名高き「分離壁」のせいだ。壁は高さ3メートル以上あっただろう、壁の向こうは見ることさえできなかった。

「自治区」なんて名ばかりで、イスラエルにとっては、自治区も含めたその地域の「全部がイスラエル」である。自治区の自治権などまるでないように一方的に分離壁は建設され、今も自治区内でユダヤ人の入植は続けられている。

自治区側に入るには、車は通れない専用の狭い通路を徒歩でたどっていくしかない。空港の管制塔のように立派な監視塔が見下ろす狭い通路を人々が無言で歩いていく。巨大なコンクリートの車止め、張り巡らされた鉄条網、物乞いの女性、一人づつしか通れない鉄製の回転扉・・・なんともいえない閉塞感が漂っていた。

それとも、閉塞感を感じたのは私が自由な生活を知っている外国人だからであって、占領下で生活することには慣れきっているパレスチナ人にとってはなんてことない日常なのかもしれない。分離壁地帯を通って自治区外に通勤するパレスチナ人も多いだろうが、毎朝夕どんな気分で分離壁地帯を通り過ぎるのだろうか。

回転扉を通り過ぎるとワゴンタイプのミニバスが停まっていた。パレスチナ自治区行政府のあるラマラ行きであることを確かめて中に入る。周辺アラブの国では見るタイプのミニバスだが、エルサレムでこのようなミニバスは見なかったように思う。乗客は伝統的な服装をしていない人も半分くらいいたけれど全員パレスチナ人と思われた。皆「占領者」の通貨イスラエルシェケルで運賃を払っている。

ラマラは、アンマン(ヨルダン)・アレッポ(シリア)・トリポリ(レバノン)などのもつ歴史や重厚感こそ感じられないものの、水売りや露店のたたずまいや好奇心旺盛な街の人たちは間違いなくアラブ人の町という感じだった。

露店を冷やかしながら炎天下歩いていた私に20歳くらいの青年が英語で声を掛けてきた。「日本人か、Welcomeだ」とありきたりの会話の後、「僕の店が近くにあるから、おいでよ」という。何の店かと聞くと、宝石店だという。ラマラはエルサレムのような観光地ではないからぼったくりの土産屋ではないだろうと思いついていくことにした。

青年の「宝石屋」は雑居ビルの一階にあった。といってもビルの一階はテナントごとに仕切られているところはほとんどなく、広い通路のような空間にごちゃごちゃと売り物が積み上げられている状態だった。屋根があることを除けば、屋外市場とほとんど変わりない。

「宝石屋」というのも、通路の一角に、ディスカウントチケット屋によくあるようなショーケースが一つ置いてあるだけで、店番している人は誰もいなかった。青年が「店長」ということか。

青年は、ショーケースの裏から紙パックのオレンジジュースを出し、紙コップに注いでくれた。冷えてはいないがうまい。濃縮粉末タイプではなく天然のオレンジの味だ。
青年「パレスチナではオレンジがたくさんとれるんだよ」
埃っぽく乾燥した地という印象を持っていたので少し意外な気がした。

一息ついたところで青年が私に尋ねた。
「ねぇ、パレスチナのペンダント、見たい?」

パレスチナ自治区はヨルダン川西岸とガザに分離されているから国土を形どったデザインは難しいだろう。パレスチナ国旗をあしらった七宝焼きみたいなペンダントだろうか。それともパレスチナでとれる特殊な石でできたものだろうか。

青年はショーケースの裏から鍵を開けて一番下の段からペンダントを取り出した。まるで秘蔵の宝物を特別に見せてくれると言わんばかりに。

出てきた「ペンダント」は小さな鏡だった。何の色も付いていないし宝石もはめられていない。チェーンすらついていない、むき出しの鏡片。

鏡の形は、縦長で下半分は超ハイレグカット・・・

「それってイスラエルの地図だよね」
と私は言いかけて口をつぐんだ。

その楕円形の地形は、世界標準の地図を見慣れた私達からすれば「イスラエル」でも、パレスチナ人にとって、それは「イスラエル」などではない。自治区を含め世界がイスラエルと呼ぶ地域の「全部がパレスチナ」なのだ。

ナクバ(1948年のイスラエル建国に続く一連のパレスチナ人虐殺・離散。100万ともいわれる難民発生)を自ら体験していない青年を含めてパレスチナ人皆が思っているのだ。現実はイスラエルの占領下にあるけれど、ここは本来俺たちの土地なんだと。パレスチナ人が1000年以上守ってきた土地なのだと。

パレスチナ人の心を投影した質素なペンダントは、涙の形をしているようにも見えた。

(2005年訪問時)

写真はあるので後日掲載予定。


*私はパレスチナ人の苦境についてイスラエルのみを批判するものではありません。通りすがりの旅行者にすぎない私には見えないイスラエル側の事情というのもあるはずです。
本稿で私が書きたかったのは、分離壁と「涙のペンダント」を実際に見て、パレスチナ人・ユダヤ人双方が「全部俺たちの土地」と考えているのを実感し、和平の実現は極めて困難だと感じたということです。
「紛争・対立があるところ、(程度の差はあれ)どちらか一方のみが悪いわけではない。」というのは私が旅を通じて学んだことの一つです。パレスチナ人に対して同情的な気持は抑えられませんが、理想論ばかりを振りかざし一切の妥協をしない政権や党派対立にも、パレスチナ人を苦しめている責任の一端があると思うのです。

*関連: アンマンで「イスラエルの地図」を見て黙り込んでしまったパレスチナ人のおじさんの話(92年)

エルサレム午前3時、正統派ユダヤ人とした話(2006年)

* http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2223553/1586375#blogbtn
Farfurファルフルという偽ミッキーマウスキャラを利用して子供たちを洗脳しているハマス。なお、ファルフルはイスラエル入植者に抵抗してすでに殉教しています。

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